生きる力」の基礎を育む−宗教的情操教育を基底に−

T はじめに

 

 平成21年度より「保育所保育指針」が改定された。その中では「保育所の保育が小学校以降の生活や学習の基盤の育成につながることに留意し、幼児期にふさわしい生活を通して、創造的な思考や主体的な生活態度などの基礎を培うようにすること」が求められている。

  周知の通り、学校教育の場では「不登校」「いじめ」「学級崩壊」などの現象が頻発し、そのことが深刻な社会問題化している。この現象は、多くの識者によって「たくましさや思いやりなどの豊かな心の欠如がもたらしたものである」と指摘され、文部科学省ではこのことを受けて学習指導要領に「生きる力」をはぐくむことを理念に掲げ、そのことの実現に向けての取り組みを進めている。

  本園では「保育所保育指針」が改定された際、これまでの保育のあり方を検証し、全体的な見直しを行った。その際、「保育所保育指針」との整合性を重視して、「生きる力の基礎を育む」ことを念頭に置き、保育目標を「生かされている いのちを喜ぶ 子どもを育てる」と改めた。ただし、それは保育目標そのものを新たに掲げたということではなく、従来の園の保育目標を学習指導要領の理念と整合性のある表現に改めたということである。

  ところで、学習指導要領の理念である「生きる力」をはぐくむとは、どのようなことを背景に提唱されているのか。また、それはどのようなことを目指しているのであろうか。先ずそのことの確認がなされなければ、「生きる力の基礎を育む」ことは到底不可能である。そこで、「生きる力」についての確認作業を行ったのであるが、学習指導要領の理念として定義付けられていることの事柄だけでは、未だ不十分な点があるのではないかとの疑問が生じた。

 そして、その欠落した点を補完するものこそ、本園の保育の基底を成す宗教的情操教育であることが明らかになった。そこで、続いて「生きる力」の基礎をはぐくむために必要不可欠な宗教的情操教育とはどのようなことなのかを考察し、また本園ではどのようにしてそれを実現しようとしているのかということを明らかにして行くことにしたい。

U 研究の方法

研究の進め方としては、以下の手順によって考察を行う。

1.学習指導要領の理念である『「生きる力」をはぐくむ』とは、どのようなことを願いとし、またどのような方法によってそのことを実現しようとしているのかを考察する。

2.現代は「知識基盤社会」であると規定される。そこで、学習指導要領の理念は、そのことに即応し得る人間を生み出すことに重きが置かれるが、そのことの是非と、問題点について考察する。

3.本園の保育の基底を成す「宗教的情操教育」とはどのようなあり方なのか。宗教的情操(宗教心)について考察する。

4.「生きる力」の基礎を育むためには、本園ではどのような保育のあり方によってそのことを実現しようとしているのかを考察する。

V 研究内容

1. 『「生きる力」をはぐくむ』とは

平成23年度から、教育基本法や学校教育法の改正などを踏まえて、『「生きる力」をはぐくむ』という学習指導要領の理念を実現するため、その具体的な手立てを確立する観点から学習指導要領が改訂されることになった。

  この「生きる力」の育成が必要とされることになった背景として、文部科学省は現代を「知識基盤社会」と定義付け、「新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増していること」をあげている。

そして、このような知識基盤社会においては「課題を見いだし解決する力」「知識・技能の更新のための生涯にわたる学習」「他者や社会、自然や環境とともに生きること」など、変化に対応するための能力が求められるが故に、このような時代を担う子ども達に必要な能力こそ「生きる力」であると説明している。

  では、学習指導要領の理念として掲げられている「生きる力」とは、具体的にはどのような力のことを言うのであろうか。文部科学省の説明によれば、

  基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び考え、主体的に判断し、行動し、よりよく解決する資質や能力

  自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性

  たくましく生きるための健康や体力 など

これらが「生きる力」であるとされている。

これは、1996年に文部省(文部科学省)の中央教育審議会が、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申の中で、

  我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることはいうまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を「生きる力」と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

と述べたことから、教育の目的の一つとしてあげられるようになったものである。

 そこで、この答申を受けて、その後の学習指導要領の改訂時に「総合的な学習の時間」が創設され、2002年以降に実施されてきた学習指導要領では、「ゆとりの中での特色ある教育によって生きる力をはぐくむという方針」で行われてきた。

ところが、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして廃し、経験重視型の教育方針をもってゆとりある学校をめざした「ゆとり教育」であったが、その期待に反して子ども達の学力低下を招いたという批判を浴びることになり、今春より改訂された新しい学習指導要領では「ゆとりでも詰め込みでもなく、生きる力をよりいっそうはぐくむ」という新方針が示された。具体的には、生きる力をはぐくむことを目指し、基礎的・基本的な知識及び技能を習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力等をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む態度を養うため、言語活動を充実することとされたのである。

なお、文部科学省は、これまで「生きる力」の意味や必要性について、趣旨の周知・徹底が必ずしも十分ではなく、学校関係者・保護者・社会との間に十分な共通理解がなされなかったことと、豊かな心や健やかな体の育成について、家庭や地域の教育力が低下したことを踏まえた対応が十分ではなかったことを反省点としてあげている。

2.知識基盤社会の問題点

新学習指導要領によれば、現代を物語る「知識基盤社会」にあっては、政治・経済・文化をはじめ、社会のあらゆる領域での活動の基盤として、新しい「知識・情報・技術」を習得することの必要性が飛躍的に増していることを重視して、その能力を身に付けることこそが「生きる力」をはぐくむことであると定義付けている。

 確かに、現代社会においては、視野を広く持ち新しい知識を得ること、多くの情報を収集・分析すること、新しい技術を使いこなしていくこと、これらの力なくしては、国際化した社会で活躍する人材を生み出すことはできない。殊に、資源を持たない日本にあっては、OECD(経済協力開発機構)が知識基盤社会に必要な能力として定義した「主要能力」であるこれらの能力の育成を教育の理念に掲げることは、国として当然のことであると言い得る。

 だが、問題は、果たして「生きる力」として定義付けられた「知識・情報・技術」の力を習得するだけで、私たちは本当に自分の人生を生き抜いて行くことができるのかということである。例えば、国政とは、これらの点に非常に優れた、いわば「生きる力」をすべて身に付けていると思われる人々がその中枢にあって、日夜寄せられる多くの情報と過去のデータとを照らし合わせて分析を行い、これが最高の道だと判断した上で実践をしているはずである。その結果、人々は幸福感に浸り未来への希望といった明るさの中にあるかというと、現在への不満と将来への不安といった閉塞感の中を漂っているかのように窺われる。

 確かに、私たちが過去において起きた問題を取り扱う場合は、人間がどのような道順を歩いてきたのかということを情報化し、分析をしてそのことの善し悪しを判断することは十分に可能である。そして、その結果をもとに、未来に対して人々をより良い方向に導いて行こうとすることもあながち不可能ではない。

ただし、すべての準備を終えて、そこで未来に向かって踏み出そうとするまさにその瞬間、果たしてその内容で完全に正しい結果を導き得るのかどうかということになると、その是非を判定できる者は誰もいなくなってしまうのである。

それは、自身の日常においてもしかりである。私たちは、無意識の内に自分の中に正しい私がいて、その正しい私が物事を見て、考え、判断を下した上で、常に正しいことを言い、正しい行動をしているのだと信じている。けれども、もしそうであるならば、私の言動は、周囲の人々によっていつの場合も「正しい」という評価を受けているはずであるが、現実は必ずしもそうとは言い得ない。何故か。私が判断の根拠としているのは、それまでに自身が経験したことと知識として身に付けたこと、それが全てである。そして、未だ獲得できないでいる「知識・情報」の量が膨大であるにも関わらず、その事実を見落としていることになかなか気づき得ないでいるからである。また、仮に気付き得たとしても、「知らないことを知らないままに、全て分かったつもりでいた自身の愚かさ」に呆然とするばかりで、これがつまるところ人間の偽らざる能力であり、心であり、姿なのである。

そのため、それまで懸命に努力して、これで間違いがないと整えて準備してきたにも関わらず、ある瞬間いとも簡単にそのすべてが一瞬にして崩壊してしまったり、これで完璧だと思っていた事柄が、突然襲った不慮の事故で悲惨な状況に陥ってしまったりするのである。残念ながら、これらの事態は現代社会のいたる所で散見される現象であるが、このように、「情報化社会」といわれる現代にあっても、依然として未来への不確かさは、何ら変わってはいないのである。

したがって、どれほど「知識・情報・技術」といった主要能力を身に付けようとも、現在、この瞬間においては、空間的に何が起こってくるか,未来という時間に何が起こるか、全く分からない状態で、今ここに私たちは佇んでいるとしか言いようがない。

おそらく、「生きる力」を習得することによって、国の内外を問わず活躍し、豊かで快適で楽しい生活を作り出すことは十分に可能であると思われる。だがそれはあくまでも、多くの情報を集め分析して、まっすぐに進んでいくという在り方においてのみのことである。そのような意味で、「生きる力」とは、主に過去の知識に基づき計画通りに物事が運んでいる時に発揮される力だと言わざるを得ない。

けれども、その反対に、綿密に立てた計画が一瞬にして根底より覆った時、あるいは思いもかけない不慮の出来事が起こった時、私たちはその事実の前にはほとんど無力である。言い換えると、科学的に判断できること、筋が通っていることには強いが、その反面、筋が通らないようなこと、実はそれこそが私たちの人生そのものなのであるが、いわゆる不条理なことに直面した時には、その事実の前にただ呆然と立ち尽くすばかりである。

 このように、私たちはどうしようもない不幸に突然襲われた、科学的に正しいと判断している事が完全に狂ってしまったというような場合には、心が動転して、それまでの思いが根底から覆ってしまう。そして、それまで信じていたことが崩壊したことで、心の支えをなくし、どのように進んで良いのか分からない状態に落ち込むと、人は時として占い・運勢・日の吉凶といったような科学の対局に位置する迷信・俗信にすがろうとしたり、言いようのない孤独感・閉塞感に耐えきれず、遂には自らのいのちを絶ち切ってしまうことさえもある。

記述のことから、学習指導要領が定義付ける「生きる力」には、現代社会の求めに即応した人材を生み出そうとする極めて評価すべき点があるものの、一方で「人生は不条理である」という事実に直面した際には、未だ不十分な点があるのではないかとの疑念を払拭しきれていないとの感を否めない。

  そこで、本園ではその不十分な点を補完することを「生きる力」の基礎を育むことの具体的内容とする必要があると考えた。では、それはどのような保育の在り方なのか。次の項で、考察することにしたい。

3.宗教的情操とは何か

 本園では、加盟している浄土真宗本願寺派保育連盟が掲げる「豊かな宗教的情操教育の中で、心身の調和的発達を図り、幼児が幸せな生活のできるいしずえを築く」という保育方針をそのまま取り入れて、園の保育方針としている。ここで言われている「宗教的情操」とは、端的には「宗教心」のことであるが、では「宗教心」とはどのような心なのであろうか。

 一般に「宗教」というと、仏教・キリスト教、神道といった既成の宗教を思い浮かべるが、ここでは宗教そのものの意味について考えてみたい。先ず「宗」とは、「むね」と読む。したがって、この場合の「宗」とは生きて行く上での拠り所であり、それを具体的に言葉にしたものが「教」ということになる。

そうすると、例えばこの世の中は財産があれば、自分はそれによって生きて行けると考えている人は「財産教」、家族への愛情が支えだと言う人は「愛情教」、仕事が生きがいだという人は「仕事教」、趣味に生きるという人は「趣味教」、あるいは自分は自分以外の何ものをも拠り所にしない、自分だけが頼りだという人は「自分教」だと言い得る。その一方、自分は「無宗教」だと嘯く人がいるが、それは自身がいったい何を支えにして生きているのか分からないままに、訳の分からない生き方をしていると吐露しているだけのことに過ぎない。

  このように、人は必ず何かを「宗」として生きているのであるが、ではそれが何かということを明らかにすれば、それもう十分なのかというと決してそうではない。それは、出発点に立ったというだけのことで、人は自ら「宗」としているものが、いつの時代にあっても、いかなる人々においても光を放ち、生きる勇気を与えるものであるかどうか。すなわち、一度限りのかけがえのないこの自分の一生を託すに足るものか否かという、そのことの真偽を問わねばならないのである。

人間とは「宗」なくしては生きられない存在であるが、多くは無意識の内にその宗を自分で作り、自分の一生を託していこうとしている。いわば、これがまさに「生きる力」と定義されているあり方に基づく生き方であるが、自分で作った宗というのは、仮の宗であって、所詮ひとつの夢でしかない。「人の夢(儚)」と書いて「はかない」と読むが、夢は醒めればなくなってしまう。また、自分で考えた宗は、どこまでも自分にとって都合のよいものでしかなく、時として自身を苦しめることさえもある。

では、自分の一生を託すに足る真実の宗、端的には「真宗」とは何か。唐の僧、善導は「真宗遇い?し」と述べている。この「?」という字は「可」という字をひっくり返した字で、不可能という意味であるが、自分の力で遇うことが出来ない、それが「真宗」だというのである。これは、自分の力で作ることが出来ないということを意味しているのであるが、では自身の力で作ることのできないものとはいったい何か。それは何よりも、この自分のいのちそのものである。私たちは、自分が作ったという覚えの全くないこのいのちによって、今を確かに生きている。つまり、今、現に、私のいのちをここに生かしめている事実としてはたらいているものを「真宗」というのである。

そうすると、私が自らのいのちを「真宗」として生きるとは、いったいどのようなことを言うのであろうか。端的には、「願いの呼びかけ」に応えて生きるということである。一般に、私たちは自分がかけている願いについては十分熟知しているが、自分にかけられている願いについてはなかなか気付けないものである。けれども、私のいのちは生まれた時から、その名前に親の願いが込められ、また生きるということがそのまま多くのいのちの願いを生きるという事実の中にある。では「多くのいのちの願いを生きる」とは、どのようなことか。

榎本栄一氏の詩集(『詩集 煩悩林』)に

「罪悪深重」

わたしはこんにちまで

海の 大地の

無数の生きものを食べてきた

私のつみのふかさは

底しれず

という詩がある。これは、人間が「生きる」ということが、そのまま他のいのちを食べるという事実の上に成り立っていること。そして、それを決して正当化することなく、深く重い「罪」として受け止め懺悔する中から溢れ出た言葉を綴ったものである。

学習指導要領では、「生きる力」を「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」と表現している。確かに、これらは「人間性」を物語るにふさわしい事柄であるが、けれども「人間性」を語る場合、決して見落としてはならない大切なことがある。それは、どのようなことか。

私たちが生きて行くということの根底には、「殺」を生きるという厳然たる事実がある。 榎本氏は、この事実を「無数の生きものを食べてきた」と表現している。だが、この点に関しては「それは人間に限らず、多くの生きものは、他の生きものを食して生きているではないか」と言われるかもしれない。しかしながら、人間が他の生きものと決定的に違う点は、「殺すという意識を持って殺している」という事実である。多くの生きものは、他のいのちを食して生きてはいるが、それはまさに本能のままの営みによってである。ところが、人間だけは、食べる以外にも「害虫・害獣」等のもっともらしい名称を付して、しかもそれらのいのちを抹殺する権利があるかのように、「殺す」という意識のもとに殺している。けれども、「殺す」ということを正当化してしまうならば、それはやがて人間に対しても民族が違う、宗教が違うといった理由でもって、平然と虐殺してしまえることは、広島・長崎への原爆投下、アウシュヴッツでのホロコーストなど、枚挙に暇が無いほど多くの事柄が歴史に記され証明されている。

したがって、「人間性」とはいかなる意味においても「殺す」ということを正当化することなく、今こうして生きている自身の足下が「殺」の事実の上に成り立っていることを直視し、そのことに深い悲しみと痛みを感じうる感性を言い当てた言葉であると思われる。

 ところで、仏教では「機」という言葉で人間を言い表しているが、この「機」という語は更に「機微(きび)・機宜(きぎ)・機関(きかん)」という三つの熟語によって、重ねて説明がなされている。機微の「微」とは、かすかということであるが、これは私たちのいのちの中にあるかすかなもの、しかし自分でも意識しないくらいかすかではあるが確かなもの、そういうものが心の奥深くで動き、息づいている。その私たちに深く根ざしているものを持った存在ということを意味する言葉である。次に「宜」とは、私に先立って同じ道を歩んでいた人の言葉に頷く、あるいは感動する心をいう。私たちは、何かに感動してふと気づいてみたら、そうだと頷いている自分に気づくことがあるが、それは理性で頷いた後ではなく、むしろ感動している自身に気付くのである。最後に「関」とは、「機関」とはエネルギー、あるいは動力のことであるが、気づいた時にそれは必ず歩みになることを物語っている。たとえ歩むまいと思っても、いつの間にか歩まされている。まさに、頷いた事実につき動かされるような存在として人間をとらえたのがこの「関」なのである。

この、自分でも意識しないほどかすかなものは、誰もが心の奥深くに持っている心であるが、これこそがまさに「生きる力」の基礎を育むことにおいて不可欠な「宗教心」なのである。

では、改めて「宗教心」とはどのような心のありようを物語る言葉なのかというと、それをひとことで言い切ると「いのちの尊さを知る心」と言いうる。幼児期とは、無意識ではあるが、本能的にいのちの尊さを頷きながら生きている時期である。それは、生命の共同性、言い換えると「すべての生きものはお互いに生き合いながら生きているのだ」ということを、自分自身のいのちの感覚の中で頷いているということである。このような意味で、すべてのことを意識し始めるこの時期に、そのことをはっきり意識の中に定着させる営みを宗教的情操教育というのである。

一般に、いのちの尊さを知ることの大切さは喧伝されているが、本来、人間というものはいのちの尊さに頷く心を持って生まれてきている存在なのである。つまり、これは生まれてから後で、誰かに教えられて初めて知るようなことではなく、そのことを意識するかどうかは別にして、誕生した時から本能的にそのような感性を持って生きているのである。その意味から言えば、いのちの尊さに頷く心根は、いのちと共に賜ってきたものと言いうる。

 思えば、幼児期とは、無機物・有機物の区別を超えて、いのちの通い合う世界を本能の中で頷き、全てのいのちと生き合う賑やかな世界を生きている時期である。見回せば、子ども達が道ばたの石に話しかけ、草や木や動物とも、楽しそうに会話している姿を容易に目にすることが出来る。その姿を幼稚だと切り捨てるか、あるいは自身がいつの間にかどこかに置き忘れてきた一番大切な感性だと気づき得るか否か、それは保育者としての資質に関わる大切な問題であるとも言い得ようか。

 そうすると、まさに幼児期こそ、私たちのために無言で死んでいった多くのいのちの声なき声を聞きうる時期であると言い得る。省みれば、私自身、自らのいのちが愛おしく、惜しい。いのちあるものであるならば、いのちが惜しくないということはないのであって、経典には、「すべての生きものは自らのいのちを愛して生きている」と説かれているが、決して人間だけがいのちを愛し、惜しんでいるのではない。また、その「声なき声」とは、「生きものたちの遺言」とでも称すべきものであるが、私たちには頂いた多くのいのちを無駄にしない生き方が、そのいのちによって願われているのだと言いうる。歌手のイルカさんは、「いつか冷たい雨が」という歌の中で

牛や鳥やおさかなも 人間の為にあるのよ

 サア残さずに食べなさい

そんな風に言うおかあさんにはなりたくありません

でも私だって 食べて育って来たのだし

虫だって 殺したことあります

だからだからお願いです

もう役に立たなくなったら すててしまったり

自分本位でかわいがったり

小さなオリに閉じ込めて

バカにしたり きたながったり

人間だけが えらいんだなんて

ことだけは思わないでください

人間以外のもの達にも もっとやさしくしてください

同じ時を生きているのだから 

と呼びかけている。この歌が多くの人々の心を打つのは、誰もがいつしか置き忘れてきた、いのちに共感する心を呼び覚まされるからに相違あるまい。

 幼児とは、自分でも意識しない程にほんのかすかではあるが、その心の奥底にいのちの尊さに頷く感性を生まれながらにして賜って生きている存在である。それは、自らのために死んでいった、生きとし生けるものの声なき声を聞きうる存在でもある。したがって、その心をきちんと定着させることによって、豊かな人間性を育むことが出来るのである。近代教育学の父といわれるフランスの哲学者ルソーが「信仰なき知識は、知恵ある悪魔を作る」、またイギリスの軍人であったウエリントンは「宗教なき教育は、ただ利口な悪魔を作る」と述べているが、ここで言われる「信仰」「宗教」とは、共にこの普遍的事実を踏まえてのものと推察される。

4.「生きる力」の基礎を育む

 日々の保育において大切なことは、常に「保育目標」が達成されるように、保育を進めることである。たとえ「保育目標」が設定され、それが紙にきちんと書かれて園内の壁に貼ってあり、職員の誰もが周知していたとしても、それだけでは何ら意味をなさない。全職員が園の「保育目標」をきちんと理解していなければならないことは自明のことであるが、そのことに満足するのではなく、「保育目標を達成するために保育課程や指導計画を作成し、どのように実践していくか」ということが常に職員一人ひとりの中に意識化され、日々そのことへの取り組みがなされていることが重要なのである。

また、これまで「保育計画」と呼ばれていたものが、今回の改定で「保育課程」という名称に変わり、「保育指導計画」の作成も義務付けられることになった。「保育指導計画」とは、「何の遊び」をするのか、そしてそれを「どのような方法」で実践するのか、さらに「どのような用具、教材、素材」を使用するのかといった事項を具体的に明記することが求められものである。つまり、「どのように指導するのか?」という問いかけに対して、「このようにして…」ということを明記することで、どの保育者が携わっても一定の保育の質を維持しつつ指導することが可能になるのであるから、「現実的で実践可能な予想のもとに、具体的な保育内容を記述した実践計画」のことだと言い得る。

したがって、「保育指導計画」の作成に際しては「遊び」を抽象的な表現ではなく、具体的に記述することが大切になる。このことは、「保育指針」に『保育の目標を達成するために、保育の基本となる「保育課程」を編成するとともに、これを具体化した「指導計画」を作成しなければならない』と示されていることからも明らかである。

ところで、「保育指針」に書かれている教育内容を読むと、「何をするのか」という表現は存在するが、「どのように」という表現がなく、そのため「何の遊びをするのか」ということは分からない。そうすると、これをそのまま「年間指導計画」や「月間指導計画」に転用しようとすると、保育の現場では「使えない」ということになってしまう。ただし、教育内容が抽象的な表現になっているのは、国が保育の具体的方法まで決めてしまうと、それぞれの園が持っている「生活や遊び」の独自性とか独創性に対して介入することになってしまう虞れが有るので、そのことに対して配慮したものであると推察される。そういう点では、それぞれの園ごとの保育の方法論や、遊びの技術を活かした独自性や独創性のある保育を行うことが期待されているのだとも言い得る。

保育の実践に際しては、五領域に記載されている遊びの内容を年齢ごとに、入園している期間を通じて、せめて一年間を通じて生活と遊びに一貫性をもって、それが発展的になるよう考えることが大事である。それが「保育課程」の基本となる考え方になる。「保育課程」について、保育指針には「保育課程は、各保育所の方針や目標に基づき、第2章(子どもの発達)に示された子どもの発達過程を踏まえ、前章(保育の内容)に示されたねらい及び内容が保育所生活の全体を通して、総合的に展開されるよう、編成されなければならない」と示されているので、「保育課程」における記述や表現は、「年間指導計画」の「生活や遊びの一貫性や発展性」を維持するための指標となるため、「ねらい」的な表現になる。

今度の改定により「ねらい」が「心情」「意欲」「態度」の三つの順序で示されるようになった。私たちはつい「〜が出来なければならない」という「態度」のみを求める傾向にあるが、子どもの個人差を考慮すると、「興味や関心が生まれる」ように導く「心情」を育てる部分と、「試して見よう」とか「自ら挑戦してみたい」という「意欲」を育てること、更には「できた」「成功した」「身についた」などの「態度」を育てることの順序が三段階に設定されたことで、保育を行う上での「ねらい」の設定も考えやすくなったように思われる。

 ここで改めて保育目標・保育課程・保育指導計画の関係を述べると、園の「保育目標」を達成するために、それに向かって保育を進めていく上での保育のねらいを「保育課程」で明確にし、更にそれを実現していくための現実的で実践可能な予想のもとに、具体的な保育内容を記述した「保育指導計画」を立てることが、現場の保育士には求められているのだと言い得る。

そこで、これらのことを踏まえて、本園では「生きる力」の基礎を育むために、園の願いとする保育目標を「生かされている いのちを喜ぶ子どもを育てる」と定め、「保育指針」に基づく「保育課程」を作成すると共に、宗教的情操教育を基底とする独自の「保育計画」を作成した。

また、「保育指導計画」の作成に際しては、「保育計画」をその根底に置くことを十分に意識した。この場合、特に留意したのは、保育目標・保育課程(保育計画)・保育指導計画との整合性を図ることであった。

「保育指導計画」を立てる場合大切なことは、連続性と一貫性を持った内容とすることである。そこで、このことを十分に意識しつつ、保育連盟から示されている毎月の「保育主題」を「保育指針」との整合性を図りつつ再構築を行った。具体的には、まず「保育目標」を達成するために四つの保育の柱を立てた。更に、毎月の「保育主題」として示されていることをその月だけの主題にとどめるのではなく、その願いとする事柄を明確化して、全ての主題を最終期に達成出来ることに留意した。

いまそれを示せば、次の通りである。

◎ まことに生きる子

* 信順:心から頭を下げる「まこと」があることを知る

* 讃嘆:他人の良い点を、素直にほめることが出来るようになる

* 歓喜:様々な体験を通して、生きる喜びを知る

◎ 思いやりのある子

* 照育:自分は、いつでもどこでも照らされ、見守られていることを知る

* 反省:自分のあり方を省み、改善する力を身につける

* 報謝:「有り難う」の思いを、形に出来るようになる

◎ お話をよく聞く子

* 聞法:聞いた内容を理解し、自分の言葉で伝えられようになる

* 領解:「きまり」を通して、自らを律する力を身につける

* 精進:目標に向かい、諦めることなく進み続けられるようになる

◎ みんなと仲良くする子

* 報恩:多くのいのちのお蔭によって、生かされていることを喜ぶ

* 和合:自分が、言われたりされたくないことは、他人に対して慎む

* 奉仕:自分が、他の人の役に立つ存在であることを喜ぶ

 では、これらの内容をどのように実現していけばよいのか。例えば「縄跳び」は領域でいうと「健康」に分類されるが、ではなぜ「縄跳び」をするのかというと、単に「健康増進」だけではなく、その根底に「精進」(目標に向かい、諦めることなく進み続けられるようになる)という保育主題を実現するためであるといいうる。同様に、絵本の読み聞かせも「聞法」(聞いた内容を理解し、自分の言葉で伝えられようになる)という保育主題を実現するために他ならない。

つまり、日々の保育を行って行く中で、「なぜ」というところに、五領域だけではなく「保育主題」のねらいを実現することを意識しているのである。

 このように、本園では園の「保育目標」を達成するために、保育連盟から示された「保育主題」を最終的に達成することを目標として掲げ、四つの保育の柱を立て、その一つひとつを実現するために、「保育指針」との整合性を図りつつ、保育指導計画を作成して日々の保育に取り組んでいる。そして、その取り組み、端的には宗教的情操教育を基底とするあり方によって「生きる力」の基礎を育むことを願いとして、日々の保育に勤しんでいる。

では「その成果は?」と問われると、実は即座に応答することは出来難い。なぜか。幼児の人生は、まだ始まったばかりだからである。したがって、その成果は、人が人生の途上において困難に直面したとき、あるいは生きる方向を見失ったとき、初めて顕在化するものである。

既に述べたように、「生きる力」は、順境にある時の力としてはたらくものであるが、一方その基礎的力は逆境に陥った時の「復元力」としてはたらくものだと言いうる。船を造る際に、一番大切で難しいのは、大嵐にあい、横波を受けて転覆しそうになった時、もとのあり方に戻る「復元力」をどうつくるか、ということである。

人生は、順風満帆のときばかりではない。いつ何時、予期しない逆境に陥るかもしれない。けれども、そのような時にこそ、生きる勇気となってはたらく力を自らの内に持たなければ、苦難の波を受けて転覆・沈没してしまうことにならざるを得ない。

では、「生きる力」の基礎となるその「復元力」とはどのようなものか。端的には、「生かされているいのちを喜ぶ」ことであり、また「自らがここに存在する喜びを実感する」ことである。

ただし、いかに崇高なる保育目標を掲げ、どれほど緻密な保育指導計画を立てたとしても、畢竟日々の保育は、保育者と子ども達との関わりの中で展開していくものである以上、保育者の影響力に左右されることは明白である。

 下農は雑草をつくり、中農は作物をつくり、上農は土をつくる。

という言葉がある。上農は、いい土を作ることによって、作物がひとりでにいい作物にならずにはおれなくするという意味であるが、この言葉から、本当に人間らしい、心豊かな子どもを育てるためには、保育者がその人的環境であることが窺い知られる。

 私たち保育者は「子ども達にいのちの尊さを伝えるためにはどのようにすれば良いか」といったことを問うことがあるが、その前に問うべきは、「私はいのちの尊さを実感しているか」ということである。園庭で、子ども達が輪になって座り込んでいる光景を目にすることがある。何をしているのか近寄ってみると、蟻の行列を凝視していたりするのだが、その時に子どもが「アリ〜!」と叫んでも、その驚きに共感することもなく素通りしてしまったり、あるいは鉢植えの朝顔に水をやりながら「おはよう」と声をかける姿を見ても無関心でいるようでは、到底子ども達に「いのちの尊さ」を伝えることなど、不可能だと言わざるを得ない。

 このような意味で、私自身が「生かされているいのちを喜ぶこと」が出来ているか。また「自らがここに存在する喜びを実感する」ことが出来ているかを、常に問い続けていくことが大切なのだと思われる。このことを実現していくために、 保育者一人一人が保育目標を見失うことのないように心がけ、常に保育計画の見直しを行うと共に、いのちに共感する心を子ども達に学びつつ、子ども達のよき環境となれるよう勤しむことで、「生きる力」の基礎を育みたいと考えている。

最後に、仏教では「諦・実・時」の三つをそなえる時、はじめて言葉が人を活かす正語となると説かれている。正語とは、本当のことを言い当てている言葉である。だが、それがどれほど事実を言い当てていても、それだけでその言葉が人を活かすかというと、必ずしもそうは言い得ない。それどころか、他人には触れられたくない身の事実を冷徹に言い当てられた時には、それが事実であればあるほど、いっそう傷つくこともある。そこで、事実を正しく言い当てている諦語も、本当にその人のことを思い、実意をもって語られる実語でなくてはならないと言われる。ただし、実意を以て、事実を語りさえすればそれでよいかというと、そこに「時を誤まつな」と、時語ということが注意されている。どれほど愛情をもって語りかけても、時を得ていないなら、語る側だけの自己満足、あるいは単なる押しつけの言葉になってしまうのというのである。

事実(諦)を、実意ある愛情(実)をもって、時(時)を誤またずに語るとき、初めてその言葉は、人を活かす働きを持つのだという、この正語の教えは、まさに人間が生まれながらにして持って生まれた、いのちに共感する心、それは自身で意識しないほど微かなものではあるが、誰もが確かに賜って生まれた心を幼児期にこそ、その心の奥深くに定着させること、換言すれば、宗教的情操教育がいかに幼児期に大切さであるかということを語りかけているように窺える。

 「第21号 全国保育士会 研究紀要 2011」に発表掲載 
 





「生きる力」の基礎を育む−宗教的情操教育を基底に−

● 第1−2分科会  

1.保育園の沿革と取り巻く環境

 初めに、アソカ保育園とその所在地である鹿屋市について、ご紹介いたします。

 アソカ保育園は、昭和27(1952)2月1日に定員50名で開園しました。以後、数回定員の増減があり、現在は定員90名で、108名の園児を受け入れています。また、この春までに2278名の卒園児を送り出し、平成24(2012)2月には開園60周年を迎えます。

園名のアソカですが、これはもともと古代インドの標準文章語句であるサンスクリットで、「ア」は否定を意味し、「ソカ」は憂いを意味することから、中国では「無憂=憂いがない」と訳され、それから転じて「仏さまの庭」ということを象徴的に表しています。このことからもお分かり頂けるかと思いますが、アソカ保育園では、全国で1000余りの保育園・幼稚園が加盟している、浄土真宗本願寺派保育連盟に加盟し、「まことの保育」という名前で呼ばれる「仏教保育」を行っています。

保育園がある鹿屋市は、人口10万5千人余り。鹿児島県の大隅半島のほぼ中央に位置し、行政・経済・産業の中核となる役割を果たしています。年間の平均気温が17℃と温暖な気候であるため、その気候と自然を活かした農業・畜産が盛んで、黒豚やブロイラー、落花生、サツマイモなどが特産品です。 また、国立大学の鹿屋体育大学や海上自衛隊鹿屋航空基地の他、8ヘクタールの広大な敷地に、4千種・5万株のバラが咲き誇る 「かのやばら園」 などが有ります。

保育園は、飲食店街や金融機関がある行政・商業地区、いわゆる市街地区にあるのですが、周辺は百貨店・小売店等の相次ぐ閉鎖や、市郊外への大型店の進出などによりかなり空洞化が進んでいます。そのため、園児は毎年6つ以上の小学校区から通園してきています。

このような市街地区にある一方、保育園の半径5百メートル以内には、体育館・武道館・弓道場・テニスコート・サッカー場・プールなどの市民運動施設の他、いこいの森・小動物園・公園などが隣接しています。

そこで、5月と10月の遠足は小動物園と中央公園を、7月から8月にかけてのプール遊びでは幼児用市営プールを、10月の運動会では体育館をそれぞれ利用している他、毎月の園外保育では「いこいの森」に出かけて、四季折々の自然とふれあうなど、大変環境に恵まれています。

さらに、市民交流センター・リナシティ内にプラネタリウムがあるので、園外保育を兼ねて季節ごとの星座鑑賞も行っています。

 今回の発表では「生きる力の基礎を育む」ということについて、園の保育方針である「宗教的情操教育」の意味を明らかにすることを通してしばらく考えて参ります。

2.研究の動機について

平成21年度から「保育所保育指針」が改定されました。それにともない、保育課程・保育指導計画等の作成を行うことが義務付けられました。これを受けて、保育セミナーなどで繰り返し学んだことを基に、保育連盟から示されている保育理念・方針・主題と、「保育指針」に基づく保育指導計画とが整合性のとれたものとなるよう、保育内容の全体的な見直しを行いました。その際、「保育指針」に『保育所の保育が、小学校以降の生活や学習の基盤の育成につながることに留意し、幼児期にふさわしい生活を通して、創造的な思考や主体的な生活態度などの基礎を培うようにすること』とあることを、特に意識しました。

具体的には、小学校以降は『「生きる力」をはぐくむこと』が教育の理念に掲げられているので、保育園では連続性と一貫性ということを考慮して、「生きる力の基礎を育む」ことを保育の目標に設定しました。ただし、それは「新たに」ということではなく、これまで目指してきた保育のあり方を文章にしていく作業であったと言えます。そこで問題になったのは、では「生きる力」とはいったい何かということです。「生きる力」の基礎を育むと言っても、「生きる力」の内容が分からなければ、その基礎を育むことなど不可能だからです。また、このことの意味が職員の共通理解とならなければ、目標も単に掲げただけに終わってしまいます。

そこで『「生きる力」の基礎を育む』ためには、いったいどのようなことに留意すればよいのか。このことを明らかにするために、今回の研究課題として取り上げることにしました。

3.宗教的情操教育

「生きる力」の内容と、その課題については、「研究紀要」の方に詳しく述べましたので大半は割愛しますが、一言で言うと現代を物語る「知識基盤社会」に必要とされる「主要能力」、つまり「生きる力」だけでは、不条理な人生を乗り切っていくことは、極めて難しいということです。その不十分な点を補うことが『「生きる力」の基礎を育む』ということであり、その内容こそが「宗教的情操教育」であると考えました。

 アソカ保育園では、加盟している浄土真宗本願寺派保育連盟が掲げる「豊かな宗教的情操教育の中で、心身の調和的発達を図り、幼児が幸せな生活のできるいしずえを築く」という「保育方針」をそのまま取り入れて、園の保育方針としています。ここで言われている「宗教的情操」とは、「宗教心」のことですが、それを別の言葉で言い換えると、「いのちの願いの呼びかけに応えて生きる心」ということになります。

一般に、私たちは自分がかけている願いについては十分すぎるほど知っているものですが、自分にかけられている願いについてはなかなか気付くことが出来ません。けれども、私のいのちは生まれたその時から、名前に親の願いが込められ、また生きるということが、そのまま多くの「いのち」の願いを生きているという事実の中にあります。

このような意味で、私のいのちは「願いの結晶」であるということが出来ます。ここでいう「多くのいのちの願いを生きる」とは、どのようなことかというと、榎本栄一さんは、「罪悪深重」という題で

わたしはこんにちまで 海の 大地の

無数の生きものを 食べてきた

私のつみのふかさは 底しれず

と述べておられます。これは、「生きる」ということが、そのまま他のいのちを食べるという事実の上に成り立っていること。そして、それを決して正当化することなく「罪」として受け止め、懺悔する中から溢れ出た言葉を綴ったものです。

「生きる力」の説明文の中にも「豊かな人間性」という言葉がありますが、これはいかなる意味においても「殺す」ということを正当化することなく、今こうして生きている私の「いのち」は「殺す」という事実の上に成り立っていることをまっすぐに見つめ、そのことに深い悲しみと痛みを感じ得る感性を言い当てた言葉であると思われます。

このことから、「宗教心」とはまた、「いのちの尊さを知る心」だと言えます。幼児期というのは、無意識ではあるのですが、本能的に「いのちの尊さを頷きながら生きている時期」です。それは「すべての生きものは、お互いに生き合いながら生きているのだ」ということを、自分自身のいのちの感覚の中で頷いているということです。

このような意味で、すべてのことを意識し始めるこの時期に、そのことをはっきり意識の中に定着させることが、人間として生きて行く上で極めて大切なことであり、その営みを宗教的情操教育というのです。

一般に「いのちの尊さを知ること」の大切さは、至る所で提唱されていますが、本来、人間というものはいのちの尊さに頷く心を持って生まれてきている存在なのです。つまり、これは生まれてから後で、誰かに教えられて初めて知るようなことではなく、そのことを意識するかどうかは別にして、誕生した時から本能的にそのような感性を持って生きているということです。その意味から言えば、いのちの尊さに頷く心根は、「いのちと共に賜ってきたもの」とも言うことができます。

 思えば、幼児期というのは、無機物・有機物の区別を超えて、いのちの通い合う世界を本能の中で頷き、全てのいのちと生き合う賑やかな世界を生きている時期です。周囲を見回せば、子ども達が道ばたの石に話しかけていたり、草や木や動物とも楽しそうに会話している姿を容易に目にすることが出来ます。その姿を単に幼稚だと切り捨てるか、あるいは自身がいつの間にかどこかに置き忘れてきた一番大切な感性だと気づくことができるかどうか。それは、保育者としての資質に関わる大切な問題であると言えないでしょうか。

 そうすると、まさに幼児期こそ、私たちのために無言で死んでいった多くのいのちの「声なき声」を聞きうる時期であると言えます。省みれば、私自身、自らのいのちが愛おしく、惜しいものです。いのちあるものであるならば、いのちが惜しくないということはないのであって、経典には、「すべての生きものは自らのいのちを愛して生きている」と説かれているそうですが、決して人間だけがいのちを愛し、惜しんでいるのではありません。いのちの「声なき声」とは、「生きものたちの遺言」とでも言うべきものですが、私たちには頂いた多くのいのちを無駄にしない生き方が、そのいのちによって願われているように思われます。

幼児とは、自身でも意識しない程にほんのかすかなのですが、その心の奥底にいのちの尊さに頷く感性を生まれながらにして賜って生きている存在です。それはまた、自らのために死んでいった、生きとし生けるものの「声なき声」を確かに聞きうる存在だということです。

 聞く所によると、生き物には「臨界期」と呼ばれる「大切な時期」があるのだそうです。これは、脳の中で覚えたり感じたりする神経回路(ニューロン)が、外からの刺激により集中的に作られたり、回路の組み替えが盛んに行われる時期で、学習を成立させる最も感性豊かな限られた時期でもあるのだそうです。「視覚の臨界期」「聴覚の臨界期」など、さまざまな動物種のそれぞれの機能には、一生に一度しかない絶対期間の「臨界期」が存在するそうですが、大変興味深く思われます。「臨界期」の説明からも窺い知られますように、幼児期に宗教心をきちんと定着させることによって、豊かな人間性を育むことが出来るのです。近代教育学の父といわれるフランスの哲学者ルソーが「信仰なき知識は、知恵ある悪魔を作る」、またイギリスの軍人であったウエリントンは「宗教なき教育は、ただ利口な悪魔を作る」と述べていますが、ここで言われる「信仰」「宗教」とは、共にこの普遍的事実を踏まえてのものと推察されます。

4.「生きる力」の基礎を育む

アソカ保育園では「生きる力」の基礎を育むために、園の願いとする保育目標を「生かされている いのちを喜ぶ 子どもを育てる」と定め、「保育指針」に基づく「保育課程」を作成すると共に、宗教的情操教育を基底とする独自の「保育計画」を作成しました。また、「保育指導計画」の作成に際しては、「保育計画」をその根底に置くことを十分に意識しました。この場合、特に留意したのは、保育目標・保育課程・保育指導計画との整合性を図ることです。

「保育指導計画」を立てる場合大切なことは、『連続性と一貫性を持った内容とすること』だと示されています。そこで、このことを十分に踏まえた上で、保育連盟から示されている毎月の「保育主題」と「保育指針」との整合性を図りながら再構築を行いました。具体的には、まず「保育目標」を達成するために「まことに生きる子」「思いやりのある子」「お話をよく聞く子」「みんなと仲よくする子」という四つの保育の柱を立て、更に毎月の「保育主題」として示されていることをその月だけの主題にとどめるのではなく、その願いとする事柄を明らかにして、全ての主題を5歳児の最終期に達成出来ることに留意しました。

今この四つの保育の柱を一般的な言葉に言い換えると、生きて行くための必須条件と言える「基本的生活習慣の習得」、言葉や表情などによりお互いのを心を通わせる「コミニュケーション力」、自分自身を律することの出来る「セルフコントロール力」、他人と一緒に考え、問題を解決し、喜びを分かち合う「社会力」と言う表現になるように思われます。

では「その成果は?」と問われると、「保育目標」については、実は即座に応答することは出来ません。なぜなら、幼児の人生は、まだ始まったばかりだからです。したがって、その成果は、人生の途上において困難に直面したとき、あるいは生きる方向を見失ったとき、初めて顕在化するものだからです。

「生きる力」と定義された能力は、順境にある時、有効にはたらくものですが、一方その基礎的力とは逆境に陥った時の「復元力」としてはたらくものだと言えます。聞くところによると、船を造る際に一番大切で難しいのは、大嵐に遭い横波を受けて転覆しそうになった時、もとのあり方に戻る「復元力」をどうつくるか、ということなのだそうです。

人生は、決して順風満帆の時ばかりではありません。いつ何時、予期しない逆境に陥るかもしれません。けれども、そのような時にこそ、生きる勇気となってはたらく力を自らの内に持たなければ、苦難の波を受けて転覆・沈没してしまうことにならざるを得ないのが人生の実相です。

では、「生きる力」の基礎となるその「復元力」とはどのようなものでしょうか。それこそ「生かされているいのちを喜ぶ心」であり、また「自らがここに存在する喜びを実感する心」に他なりません。

5.環境としての保育者

ただし、どれほど崇高な「保育目標」を掲げ、緻密な保育指導計画を立てたとしても、つまるところ日々の保育は、保育者と子ども達との関わりの中で展開していくものである以上、保育者による影響力は多大であり、その成果の是非も左右されることは言うまでもありません。

 下農は雑草をつくり、中農は作物をつくり、上農は土をつくる

いう言葉があるのだそうです。「優れたお百姓さんは、いい土を作ることによって、作物がひとりでにいい作物にならずにはおれなくする」という意味ですが、この言葉から、本当に人間らしい、心豊かな子どもを育てるためには、保育者がその人的環境であることが窺い知られます。

 私たち保育者は「子ども達に、いのちの尊さを伝えるためにはどのようにすれば良いか」といったことを問うことがあります。けれども、その前に問うべきことは、「私自身がいのちの尊さを実感しているか」ということだと言えます。

園庭で、子ども達が輪になって座り込んでいる光景をよく目にすることがあります。「何をしているのかな?」と近寄ってみると、蟻の行列をじっと見ていたりするのですが、その時に子どもが「アリ〜!」と叫んでも、その驚きに共感することがなかったり、あるいは鉢植えの朝顔に水をやりながら「おはよう!」と声をかける姿を見ても無関心でいるようでは、とうてい子ども達の心に「いのちの尊さ」を伝えることなど、「とても出来ないな…」と、深く反省するばかりです。

 このような意味で、私自身が「生かされているいのちを喜ぶこと」が出来ているかどうか。また「自らがここに存在する喜びを実感すること」が出来ているのかを、常に問い続けていくことが大切なのだと思います。そして、保育者一人一人が「保育目標」を見失うことのないように心がけ、常に保育計画の見直しを行うと共に、いのちに共感する心を子ども達に学びつつ、子ども達のよき環境となれるよう努めることではじめて、「生きる力」の基礎を育むことができるのだと考えています。

6.保育事例

 では、『「生きる力」の基礎をはぐくむ』ために、日常の保育の中でどのような実践をしているか。具体的には「自分のいのちがここにこうしてあることの喜びを、子ども達にどのように伝えようとしているか」ということについて、いくつかの事例を紹介いたします。

@「歌」を通して−「まあるいいのち」

 一番目の事例は、「歌」を通してです。生活発表会の時に、「まあるいいのち」という曲を取り上げて、サビの部分はコーラスにもチャレンジしました。この曲は、今から30年以上も前に作られたのですが、その歌詞の内容と、優しいメロデイがいつの世にあっても人々の心を癒していることから、近年もテレビコマーシャルのBGMに用いられていましたので、ご存知の方も多いと思います。

一番・二番・三番いずれもその最後に「一人にひとつずつ 大切ないのち」というフレーズがあり、それを繰り返し歌うのですが、特にここの箇所はコーラスパートでもあったので、子ども達にはよりいっそう心に残るものなったようです。「いのち」は、一人にひとつずつ、かけがえのないものであり、全てのいのちが「それぞれに大切ないのちだ」ということを、歌を通して何度も言葉にすることで、子ども達も心の奥深くに刻み込んでくれたように思われます。

A「遊戯」を通して−「手のひらを太陽に」

二番目の事例は、「遊戯」を通してです。毎年運動会の最後には、整理運動を兼ねて親子遊戯と全体遊戯を行っています。親子遊戯は、毎年曲目を変えて、その時々のヒット曲、今年ですと「マル・マル・モリモリ」とかを取り入れたりするのですが、全体遊戯だけは毎年同じ曲を用いています。その曲とは、よく知られている「手のひらを太陽に」です。

この曲は、アンパンマンの作者、やなせたかしさんが作詞していることでも有名です。曲調も明るく、その歌詞は、生きているから悲しいこともあれば嬉しいこともあるし、生きているから歌ったり笑ったりする。そして、みみず・おけら・あめんぼ・とんぼ・かえる・みつばちなどを、共にこの世界を生きる「ともだち」として歌いあげています。

この歌詞の世界観は、幼児が生まれながらにして持っている、いのちを平等に見る感性によって成り立っているものと、とらえています。

  子ども達は、毎年運動会でこの歌詞を口ずさみながら、元気よく踊っているのですが、おそらくこの曲は、いくつになっても親子でふれあい楽しんだ、運動会の思い出を呼び覚ます「魔法の鍵」のような役割を果たすと共に、自分がここにこうして「生きていること」の喜びに目覚めさせてくれた、心の遺産となるものと期待しています。

B「物語」を通して−「わすれられないおくりもの」

 三番目の事例は、「物語」を通してです。私たちが生きて行く上で、誰もが直面する深い悲しみは、愛するものとの死別です。

 「死」はある意味では「生」を否定するものです。しかし、その「死」を見つめることを通して、初めて「生」のかけがえのなさや、有り難さが知られてくるということがあります。そうしますと『「生きる力」の基礎を育む』ということの根底には、実は「死」をどのように伝えるか、という難しい問題が横たわっているとも言えるようです。

 そこで、生活発表会で『わすれられないおくりもの』という童話を取り上げて、大型絵本を作り、子ども達が数行ずつを暗記して発表するということを試みました。このようなことに挑戦すると、おそらくどこの保育園でもそうだと思われますが、子ども達は練習を重ねて行くと、自分の担当部分だけではなく、友だちの担当部分も一緒に覚えてしまいます。つまり、大半の子が物語の全てを暗記してしまうのです。物語の内容をご存知ではない方のために、あらすじを紹介いたします。

 動物の森で、みんなが頼りにしていた年老いたアナグマが、ある冬の日を前にひっそりと亡くなります。森のみんなは、アナグマをとても愛していましたから、悲しまないものはありませんでした。モグラもカエルもキツネもウサギも、みんな悲しみに打ちひしがれて、冬の間、それぞれの穴に閉じこもって、アナグマを懐かしみます。そして、春になって、お互いがアナグマの思い出を語り合うようになります。

 モグラはハサミの使い方を、キツネはネクタイの結び方を、カエルはスケートのすべり方を、ウサギは料理を教えてもらい、それぞれ上手くできるようになった時の嬉しさは、忘れられない思い出でした。このように、いろいろとアナグマから贈られていたことを思い出して話し合うのですが、初めはアナグマのことを語る時には、悲しみがいっぱいだったのに、お互いに語り合う内に、アナグマの残してくれたものの豊かさによって、それぞれが生きる勇気を回復していくという短い物語です。

 私たちが、愛する人の「死」を受け止めるということは、その「いのち」から贈られているものを受け止めることだと言えます。例えば、一人の人と死に別れた悲しみ、あるいは可愛がっていた動物と死に別れた悲しみ。その悲しみの深さは、そのものから贈られていたものの大きさだということをこの童話は教えてくれているように思われます。私たちは、長く生きれば生きて行きた分だけ、たくさんの愛するものや親しい人の死に直面することになります。そういう中で、その人と死に別れた悲しみというのは、実は「その人から贈られたいたものの大きさだったのだ」と、思い知らされることになるのです。

ですから、「死を受け取る」ということは、贈られていたものを受け取るということであり、それが人ばかりでなく犬や猫であったとしても、その犬や猫が今まで生きている間に、自分たちにどういうものを贈ってくれていたのか、それをきちんと受けるということが、大事なことなのだと言えます。そして、「死」を受け取るということを通して、人間としての謙虚さや、人間としての優しさを教えられるような気がします。

生活発表会で子ども達は、この物語を暗記して立派に発表しました。今はまだ、「死を受け取る」ということの意味までは分かっていないと思いますが、いつか深い悲しみに出会った時、ふとこの物語を思い出して、生きる勇気を取り戻してもらえたら嬉しく思います。

C「おにぎり作り」を通して−「報恩講」

四番目の事例は、「おにぎり作り」を通してです。毎年1月16日に「報恩講」の行事があります。この中で、おにぎり作りをするのですが、冬の一番寒い時期であるにも関わらず、子ども達はお米を冷たい水で洗うところから始めます。そして、ようやく炊きあがったお米を小さな手で握るのですが、その前に子ども達と必ず次のようなやり取りをします。

『おにぎりが出来上がって、食前の挨拶をしても、すぐに食べてはいけません。その前に、よ〜くおにぎりを見てください。みなさんは、丸とか三角、色んな形のおにぎりを作ると思いますが、おにぎりは一粒一粒のお米の集まりから出来ていることが分かると思います。また、そのお米も、最初からそのような白いお米ではなく、田んぼに苗を植えるところか始めて…』と、朝研いだ白いお米になるまでの過程を教えます。

そして『私達の体も、おにぎりが一粒一粒のお米から出来ているように、いつも食べている肉、魚、野菜など、多くのいのちが集まって出来ています。ところで、みなさんは「いのち」をいくつ持っていますか?』と尋ねると、いつも「1つ!」という答えが返ってきますので、「では、その「いのち」を貸してくれる人?」と言うと、誰も「はい!」とは返してくれません。「どうして?」と重ねて聞くと、「自分のいのちを貸したら、死んでしまうから…」と、教えてくれる子がいます。そこで、

『みなさんが食べてきた牛とか豚とか鶏、そして魚も「いのち」は一つしか持っていないのですが、でもみなさんに食べられてしまいました。そうすると、みんな生き物は「死にたくない」と思っているはずなのに、その生き物の「いのち」をもらって、私達はこうして生きているということになります。ですから、みなさんがお友だちをいじめるような悪い子になったり、時には自分の思い通りにならないことがあるからといって「もう、死んでしまいたい」とか思ったら、食べられていった多くの「いのち」は、どう思うでしょうか。きっと「悲しい」とか「悔しい」とか、中には「あなたが悪い子になるために死んでいったんじゃないぞ!」と怒るかもしれませんね。全ての生き物は「いのち」を一つずつしか持っていません。その大切ないのちを私達はもらって生きています。自分の「いのち」が大切だと思ったら、周りのお友だちもあなたと同じように多くの「いのち」をもらって生きているのですから、いじめたり、たたいたり、けったりしないようにしましょう。そして、「あなたに食べられてしまったけど、今は、とっても良い子のあなたの中に一緒に生きていることが嬉しい!」と思ってもらえるような人になってください。だから、おにぎりを食べる前に、自分も一粒一粒のお米が集まっておにぎりが出来ているように、「多くいのちが集まって生きているんだ!」と思ってから、一粒もこぼさないように大切に食べてください』と。

この行事は、3歳児から5歳児までが経験し、3年間毎年同じ内容のやり取りをします。この行事を通して「いのち」が願いの結晶であることを、少しでも感じ取ってもらえることを願ってのことです。

 「宗教的情操教育」というと、何か特別なことのようですが、要するに「保育にいのちのぬくもりがあり、出会う保育者も子どもも、そこにいのちの輝きを持つこと」を願う保育のあり方を言うのだと思います。そのためには、何よりも保育に携わる私達保育者が、いのちのぬくもり、いのちの輝きを常に自分自身に尋ねて行くということが根本になるのではないかと考えています。「子ども達のよき環境」となれるよう、これからも日々精進していきたいと思います。ありがとうございました。

      全国保育士会の分科会にて発表した原稿 (2011.10.21)
 

まことの保育

はじめに

浄土真宗本願寺派のお寺を主体とする保育園や幼稚園で行われている保育を「まことの保育」と呼んでいる。一般には「仏教保育」という理解がなされていることから、ともすれば「花まつり」や「降誕会」などの仏教行事を催したり、「幼児のおつとめ」などの仏参をしている時だけが「仏教保育」、つまり「まことの保育」であって、それ以外は通常の保育と一緒という理解が、職員の方ばかりではなく、園長先生方の中にも少なからず見られたりする。それを「間違いだ」とまでは言わないが、やはり短絡的な理解に止まっていると言わざるを得ない。

私たちの加盟している浄土真宗本願寺派保育連盟では、「まことの保育」を進めるにあたって「保育理念」・「保育方針」・「保育信条」という三つの柱を示し、それを具体化していくために「浄土真宗の生活信条」を開いて毎月の「保育主題」を定めている。ところが、それが「保育指導計画」や、日々の保育に具体的に反映しているかというと、「残念ながらそうなってはいない」というのが、今日の保育現場の状況だと言い得る。

そこで本日は、「まことの保育」を進めていく上での留意点、具体的には「保育目標」「保育(教育)課程」「保育指導計画」の立てる際の基本的考え方と、浄土真宗の教えがどのように関わるのかということついて明らかにしていきたい。

 

1.保育現場の実状

 

@ まことの保育

 

「まことの保育」とは、『歎異抄』や『教行信証』によれば、「南無阿弥陀仏の教えをよりどころとする保育」であることが窺い知られる。それは言い換えると、常に迷いの中にある私の自己中心的な思いによってではなく、仏さまの教えに中心を置いた保育をして行くということである。

『正信偈』において、親鸞聖人が私たちのありようを「惑染の凡夫」と言い切っておられるが、これは、私達は時々迷うのではなく、常に迷いそのものに染まり切った存在だということである。このような迷いに満ち満ちた自己中心的な私の思いをよりどころに保育をしたのでは、しばしば独善的な在り方に陥ってしまうことは言うまでもない。

そこで、私達は常に自らを真実なる仏さまの教えに照らし・問い、その教えをよりどころにしながら、子ども達と共に、自らも育ち合うことを願う保育の在り方を大切にしているのである。

 

A 保育現場の実状

 

「まことの保育」を進めて行くにあたって、これまでに保育連盟からいろいろな資料・テキスト等が制作・提示され、毎年のように研修会や保育大会が催されている。だが、保育者からは「保育を進めて行く上で、まことの保育に取り組んでいることを実感出来ている」というはなかなか返って来ない。

  また、そのような状況を反映して、保育現場においては、毎月の「保育主題」を月案に記載してはいるものの、それを日々の保育の中で計画し、実行していくということになると、具体的な保育計画や事例等が作成・提示されていないために、結局「保育主題は月案に記載しただけ」ということに終わっていたり、保育者によっては「仏教行事」=「まことの保育」といった限定的・短絡的理解に陥っている。

けれども、これではどれほど外に向かって「まことの保育をしています」と言っても、その具体的な実践及び成果の獲得と評価は、各保育者ごとの裁量に委ねる他はなく、最終的には個々の保育者の資質に頼らざるを得ないというのが、保育現場の実状だと言いうる。

 

2.言葉の意味と関連性

 

@ 「保育目標」

 

一般には、企業でも教育でも「目的」を達成するために「目標」を掲げ、その目標をさらに具体的行動をもって達成するために「ねらい」を定める。そして、具体的行動をもって「ねらい」を達成するために、方法や手段を整えて、担当者が創意と工夫をもってあたる。つまり「目的」⇒「目標」⇒「ねらい」という順序性が、そこに成立する。ところが、幼稚園では既に国が「(保育)目的」を「生きる力」と定めており、小中学校共に一貫して『「生きる力」をはぐくむ』ことを目標(教育の理念)に掲げているため、幼稚園では園の保育目標を定めようとする場合、どうしてもそれに添うような表現をすることが求められる。

一方保育園では、改定以前の保育指針で「保育の目標」のところは

その子どもが、現在を最もよく生き、望ましい未来を作り出す力の基礎を培うことが保育の目標である。

と表現されていたが、今度の保育指針では

望ましい未来を作り出す力の基礎を培うために、次の目標を目指して行わなければならない。

となっている。これでは少し理解し辛い感じがするので、やはり「保育目標」は「望ましい未来を作り出す力の基礎を培うこと」と理解する方が分かりやすいように思われる。

そこで『「生きる力」をはぐくむ』という学習指導要領の理念を受けて、『「生きる力」の基礎を育む』といったことを念頭に置いた「保育目標」の設定をすることが望まれる。

いずれにせよ、保育園・幼稚園共に大切なことは、『「生きる力」の基礎を育む』といったことを念頭に置いて「保育目標」を設定することと、常に「保育目標」が達成されるように意識して、日々の保育を進めていくことだと言い得る。

 

A 「保育(教育)課程」と「保育指導計画」

 

「保育指導計画」では、

「何の遊び」をするのか。

そして、それを

「どのような方法」で実践するのか。

さらに、

「どのような用具、教材、素材」を使用するのか。

といった事柄を具体的に明記することが求められるようになった。

保育者は立案の段階でそれを記載しておくことで、実際の指導が容易に行えるようになるので、「保育指導計画」とは「現実的で実践可能な予想のもとに、具体的な保育内容を記述した実践計画のこと」ということになる。そこで、「保育指導計画」の立案に当たっては、「遊び」を抽象的ではなく、具体的に記述することが大切になる。このことは、「保育指針」に

保育の目標を達成するために、保育の基本となる「保育課程」を編成するとともに、これを具体化した「指導計画」を作成しなければならない。

と示されていることからも窺い知られます。

保育の実践に際しては、五領域に記載されている遊びの内容を年齢ごとに、入園している期間を通じて、せめて一年間を通じて、生活と遊びに一貫性をもって、それが発展的になるように考えることが大事である。それが「保育課程」の基本となる考え方になる。

「保育課程」について、「保育指針」には

保育課程は、各保育所の方針や目標に基づき、第2章(子どもの発達)に示された子どもの発達過程を踏まえ、前章(保育の内容)に示されたねらい及び内容が保育所生活の全体を通して、総合的に展開されるよう、編成されなければならない。

と示されているので、「保育課程」における記述や表現は、「年間指導計画」の「生活や遊びの一貫性や発展性」を維持するための指標となる。そのため「ねらい」的な表現をすることになる。

「ねらい」は、今度の改定によって「心情」「意欲」「態度」の三つの順序で示されるようになった。私たちはともすれば「〜が出来なければならない」という「態度」のみを求める傾向に陥りがちだが、子どもの個人差を考慮すると、「興味や関心が生まれる」ように導く「心情」を育てる部分と、「試してみよう」とか「自ら挑戦してみたい」という「意欲」を育てること、さらには「できた」「成功した」「身についた」などの「態度」を育てることの順序が三段階に設定されたことで、保育を行う上での「ねらい」の設定も考えやすくなった。

 ここで、改めて「保育目標」・「保育(教育)課程」・「保育指導計画」の関係を述べると、園の「保育目標」を達成するために、それに向かって保育を進めていく上での保育のねらいを「保育(教育)課程」において示し、さらにそれを実現していくための現実的で実践可能な予想のもとに、具体的な保育内容を記述した「保育指導計画」を立てることが、現場の先生方には求められているのだと言い得る。

 

3.園の保育目標

 

@ まことの保育と学習指導要領の理念

 

保育の現場で「まことの保育」を実践して行くにあたっては、園の「保育目標」を定め、それを実現するために「年間指導計画」・「月間指導計画」等を作成しなければならない(「整合性のある保育の質」参照)。そこで、先ずは園の願いとする「保育目標」を定め、さらに「保育(教育)課程」に基づいて「年間指導計画」・「月間指導計画」等を作成していくことになる。

私たちが「まことの保育」を進めて行くにあたっては、「保育理念」「保育方針」「保育信条」という三つの柱が示されている。

「保育理念」というのは、簡単に言うと「保育目標」のこと。

親鸞聖人の生き方に学び 生かされているいのちに目覚め 共に育ち合う

これが「保育理念」。先ずは、この文章の意味をよく理解した上で、園の「保育目標」を設定する必要がある。そして、これを達成するために、この道を進むのだということが「保育方針」として

豊かな宗教的情操教育の中で 心身の調和的な発達を図り 幼児が幸せな生活のできる礎を築く

と示されている。また、保育を進めていく上での保育者の姿勢が「保育信条」として

尊いみ教えを聞いて 仏の子どもを育てます

と述べられている。したがって、保育連盟の加盟園においては、園の「保育目標」を設定する場合、まことの保育の「保育理念」をよく理解した上で、学習指導要領の理念である『「生き力」をはぐくむ』ことを意識した『「生きる力」の基礎を育む』ということを念頭に置いて考えることが大切になる。

 

A『「生きる力」をはぐくむ』

 

 『「生きる力」をはぐくむ』というのは、いったいどのようなことか。平成23年度から、教育基本法や学校教育法の改正などを踏まえて、『「生きる力」をはぐくむ』という学習指導要領の理念を実現するため、その具体的な手立てを確立する観点から学習指導要領が改訂されることになった。

  この「生きる力」の育成が必要とされることになった背景として、文部科学省は現代を知識基盤社会と定義付け、

新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増していること

をあげている。そして、このような知識基盤社会においては「課題を見いだし解決する力」「知識・技能の更新のための生涯にわたる学習」「他者や社会、自然や環境とともに生きること」など、変化に対応するための能力が求められるが故に、このような時代を担う子ども達に必要な能力こそ「生きる力」であると説明している。では、学習指導要領の理念として掲げられている「生きる力」とは、具体的にはどのような力のことを言うのか。文部科学省の説明によれば、

基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び考え、主体的に判断し、行動し、よりよく解決する資質や能力

自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性

たくましく生きるための健康や体力 など

これらが「生きる力」であるとされている。

 新学習指導要領によれば、現代を物語る「知識基盤社会」にあっては、政治・経済・文化をはじめ、社会のあらゆる領域での活動の基盤として、新しい「知識・情報・技術」を習得することの必要性が飛躍的に増していることを重視して、その能力を身に付けることこそが『「生きる力」をはぐくむ』ことであると定義付けている。

 

B まことの保育の理念

親鸞聖人の生き方に学び 生かされているいのちに目覚め 共に育ち合う

この言葉を「親鸞聖人の生き方に学ぶ」・「生かされているいのちに目覚める」・「共に育ち合う」の3つに分けて考えていくことにしたい。

 

・「親鸞聖人の生き方に学ぶ」

 

親鸞聖人の生き方に学ぶ」というのは、私自身の「真宗」を学ぶ、あるいは「真宗に遇う」ということである。では、親鸞聖人が学ばれ、遇われた「真宗」とはどのようなことか。一般に日本で「宗教」というと、仏教・キリスト教、神道といった既成の宗教を思い浮かべるが、ここでは先ず宗教そのものの意味について考えてみたい。

「宗」とは、「むね」という読み方をする。この「むね」という言葉は、私が生きているのかいないのか、そのことを決定付けるという感情を持つものである。したがって、この場合の「宗」とは生きて行く上での拠り所であり、それを具体的に言葉にしたものが「教」ということになる。

  人は、誰もが必ず何かを「宗」として生きている。人間とは「宗」なくしては生きられない存在であるが、多くは無意識の内にその宗を自分で作り、自分の一生を託していこうとしている。けれども、自分で作った宗というのは、仮の宗であって、所詮ひとつの夢でしかない。「人の夢(儚)」と書いて「はかない」と読むが、夢は醒めれば跡形もなく消え去ってしまう。また、自分で考えた宗というものは、どこまでいっても自分にとって都合のよいものでしかなく、時として自身を苦しめることさえあったりもする。そのために、自分で作って、それに自分の一生を託していこうとすると、かえってそれが本当の宗ではなかった、「真宗」ではなかったことを知らされることになる。

では、自分の一生を託すに足る真実の宗、端的には「真宗」とは何か。「自分の力で作ることが出来ない」それが真宗であり、端的にはこの自分のいのちそのものである。私たちは、自分が作ったという覚えの全くないこのいのちによって、今を確かにここにこうして生きている。つまり、今、現に、私のいのちをここに生かしめている事実としてはたらいているものを「真宗」という。親鸞聖人は、この事実を「本願の名号」という言葉で明らかにしておられるが、それはまた願いの呼びかけということである。

その願いが私のいのちのただ中において、いのちをゆり動かすようによびかけてくる事実があるのだ、それを「真宗」というのだと教えてくださるのである。そうすると、「真宗」というのは決して特別なことではなくて、私の全身が耳になるとき、私のいのちのただなかに現に聞こえ続ける願いの呼びかけであり、それを「本願の名号」といい、また南無阿弥陀仏というのだと言うことができる。

それはまた、本当の意味で自分が一生をそれに託しきって行くことのできる教えに遇えたということである。まさに、「真宗」というその道に目を開くことによって、初めて自分の一生がこれほど尊く価値のあるものであったかということに目覚め、それを通して自分の生きている人生というものを新しく確認した、これが「真宗に遇う」ということである。つまり、自らの生涯の宗としてゆく道に目を開くことが出来た、これが「真宗に遇う」ということの内容と言い得る。

親鸞聖人が、法然聖人に出遇われたその感激一つを、90年のご生涯の中で唯一記されたということは、実は法然聖人の教えを通して、人として生まれたことの尊さに目が開かれ、それによってどのような人生を生きようとも、その人生全体はこれほどに尊いものであり、値打ちのあるものだということを確かめて行かれたことを物語っておられるのだと思われる。これが「親鸞聖人の生き方に学ぶ」ということであり、私の真宗を学ぶということだと言い得る。

 

・「生かされているいのちにめざめる

 

私のいのちは、生まれた時から、その名前に親の願いが込められ、また生きるということがそのまま多くのいのちの願いを生きるという事実の中にあるのだと言える。今ここでいう「多くのいのちの願いを生きる」とは、どのようなことか。

榎本栄一さんは『詩集 煩悩林』において「罪悪深重」という題で

わたしはこんにちまで

海の 大地の

無数の生きものを食べてきた

私のつみのふかさは

底しれず

と、詩っておられる。これは、私が「生きる」ということは、そのまま他のいのちを食べるという事実の上に成り立っていること。そして、それを決して正当化することなく「罪」として受け止め、懺悔する中から溢れ出た言葉を綴られたものである。

学習指導要領では、「生きる力」を自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性と表現している。確かに、これらは「人間性」を物語るにふさわしい事柄だといえるが、「人間性」というとについて語ろうとする場合、そこで決して見落としてはならない大切なことがある。それは、私たちが生きて行くということの根底には、「殺」を生きるという厳然たる事実があるということである。榎本さんは、この事実を「無数の生きものを食べてきた」と直截的に表現しておられる。

この点に関しては「それは人間に限らず、多くの生きものは、他の生きもののいのちを食べて生きているではありませんか」と言われるかもしれない。だか、人間が他の生きものと決定的に違う点は、「殺すという意識を持って殺している」という事実である。確かに、多くの生きものは、他のいのちを食べて生きているが、それはまさに本能のままの営みによっての行為である。

ところが、人間だけは、食べる以外にも「害虫・害獣」等のもっともらしい名称を付けて、しかも自分には、それらのいのちを抹殺する権利があるかのように、「殺す」という意識のもとに殺している。したがって、もし「殺す」ということを私たちが正当化してしまうならば、それはやがて人間に対しても「民族が違う」、「宗教が違う」といった理由でもって、平然と多くの人々を虐殺してしまえることは、既に多くの歴史的事実があますところなく証明している。

このことから、「人間性」とはいかなる意味においても「殺す」ということを正当化することなく、今こうして生きている私自身の足下が「殺」の事実の上に成り立っていることを直視し、そのことに深い悲しみと痛みを感じうる感性を言い当てた言葉であると思われる。

 幼児期というのは、無意識ではあるが、本能的にいのちの尊さを頷きながら生きている時期だと言える。それは、生命の共同性、言い換えると「すべての生きものはお互いに生き合いながら生きているのだ」ということを、自分自身のいのちの感覚の中で頷いているということである。このような意味で、すべてのことを意識し始めるこの時期に、そのことをはっきり意識の中に定着させる営みを宗教的情操教育というのだと言える。

一般に、「いのちの尊さを知ることの大切さ」は、しばしば喧伝(けんでん)されているが、わざわざ教えなくても、本来人間というものはいのちの尊さに頷く心を持って生まれてきている存在である。つまり、このような感性は、生まれてから後で、誰かに教えられて初めて知るようなものではなく、そのことを意識するかどうかは別にして、誕生した時から本能的に持って生まれてきている。

その意味から言えば、いのちの尊さに頷く心根は、いのちと共に賜ってきたものだと言える。思えば、幼児期とは、無機物・有機物の区別を超えて、いのちの通い合う世界を本能の中で頷き、全てのいのちと生き合う賑やかな世界を生きている時期である。

周囲を見回せば、子ども達が道ばたの石に話しかけていたり、草や木や動物とも楽しそうに会話している姿を容易に目にすることが出来る。その姿を幼稚だと切り捨てるか。あるいは、自身がいつの間にかどこかに置き忘れてきた一番大切な感性だと気づき得るか否か。それは、保育者としての資質に関わる大切な問題であるとも言えようか。

 そうすると、まさに幼児期こそ、私たちのために無言で死んでいった多くのいのちの声なき声を聞きうる時期であると言うことができる。省みれば、私自身、自らのいのちが愛おしく、また死んでいくことは限りなく惜しい。いのちあるものであるならば、いのちが惜しくないということは決してないのであって、経典には「すべての生きものは自らのいのちを愛して生きている」と説かれている。決して、人間だけがいのちを愛し、惜しんでいるのではない。

また、その「声なき声」とは、「生きものたちの遺言」とでも称すべきものであるが、私たちには頂いた多くのいのちを無駄にしない生き方が、そのいのちによって常に願われているのだと言える。

 幼児とは、自分でも意識しない程にほんのかすかではあるが、その心の奥底にいのちの尊さに頷く感性を生まれながらにして賜って生きている存在である。それは、自らのために死んでいった、生きとし生けるものの声なき声を聞きうる存在だともいえる。したがって、「生かされているいのちにめざめる」心をきちんと定着させることによって初めて、豊かな人間性を育むことが出来るのである。

 

・「共に育ち合う」

 

 「共に育ち合う」ということについて、両眼人という言葉を通して考えてみたい。この「両眼人」という言葉は、浄土真宗で信心の生活を表す言葉であるが、今はそれを離れて、保育を行う場合、「いつも二つの視点を持った人」という意味に理解することにしたい。

 在園中は、子どもたちの生活習慣の自立を図ったり、社会性を身に付けさせたり、文字・数字の読み書きなどが出来るように教えたり…と、いろいろ「しなければならないこと」がある。これは、子ども達を園での「○年間」のところだけで見るあり方だと言えるが、この他にもう一つの視点を持って頂きたい。それは、その子の生涯を、ここから始まる人生そのものを、一人の人間として見るというあり方である。これは、すぐに結果が見えるようなあり方ではない。しかし、そこに「願い」を持って関わっていくということがあるとするならば、そのことは必ず子ども達の心の中に根をおろして、やがて花開く時がくると思われる。

このような意味で、「両眼人」というのは、園で預かっている期間だけのところで子どもを見守ると同時に、人生全体を見渡し、見通すところから子どもに関わり、呼びかけていくあり方だと言える。これは、その子を幼児として見る眼と、一人の人間として見る眼の両眼を持つということであるが、同時に今一つ、今度は子どもを見る眼と同時に、その子どもを見ている自分を見る眼をどこかに確保しておく必要がある。そうでないと、「共に」と言っても、そこには「保育する者」と「保育される者」というズレが生まれてくることになるからである。

園に勤務していると、一日の間に「しなければならないこと」がたくさんあると思うが、そのことの根底に「せずにはおれないこと」を自分で見出しているかどうかが大切になる。これは言い換えると、「保育者である自分を愛せるか」ということである。つまり、子どもを愛するということの根本に、保育者としての自分の人生や、何よりも自分自身を愛しているかということを考える必要がある。もしも愛せないという場合は、保育者としての自分と、日常の自分とが二つに別れているからだと言える。それは、園にいるときは、保育者として保育のことが頭を占めているかもしれないが、ひとたび園を出てしまえば保育とは無関係の、いわゆる趣味に満ちた人生に没頭する自分がいるということになる。このように、保育者としての自分と、園以外の自分とが別々の存在になると、園にいる時だけは保育者という意識を持ってはいるものの、自分の日常の生活と全く切り離して子どもにものが言えるようになってしまう。

 「共に」ということは、「同じ土俵に上がって、お互いに手を取り合って一緒にやりましょう」ということではない。「共に」というのは、子どもが保育者自身の人生の内容になるということにおいて、初めて生まれてくる。その時、子どもには保育者がかけがえのない存在となっていくのだと思われる。決して「お互いに5050、半分ずつを合わせて100」ということではない。保育者にとって、子どもとの関わりが人生の内容になり、また自分が人間として育って行く上での大事な内容になっている、そういう意識があってこそ、初めて子どももまた保育者を生涯忘れがたい人として心に刻み、ことあるごとにその出会いを振り返るのだと思われる。

 子ども達を育てるということが、そのまま私が人間として成長を遂げて行くということが、「共に育ち合う」ということの具体的内容だと言えるが、それは偏に、保育者が「両眼人」と言われるような視点を持つことが出来るかどうかにかかっているのだと思われる。

 

.整合性のある保育

 

@ まことの保育の基本構成  

 

資料の「まことの保育の基本構成」の図にあるように、「まことの保育」では、その願いを実現していくために「保育理念」・「保育方針」・「保育信条」が定められている。そして

 

・ み仏の誓いを信じ 尊いみ名を称えつつ 強く明るく生き抜きます

・ み仏の光を仰ぎ 常に我が身をかえりみて 感謝のうちに励みます

・ み仏の教えにしたがい 正しい道を聞き分けて まことのみ法をひろめます

・ み仏の恵みを喜び 互いに敬い助け合い 社会のために尽くします

 

という「浄土真宗の生活信条」を開いて、毎月の「保育主題」が示され、それを月案に盛り込んで日々「まことの保育」が実践されていくように示されている。

保育主題とは、幼児がこのように育ってほしいと願う理想と、経験する内容を抽象的に表現したもので、そのような意味で「保育課程」や「教育課程」に相当するものとお考えいただけば良いが、「保育所保育指針」や「幼稚園教育要領」に示された事項の内面に醸成される、宗教的な「心情・意欲・態度」を、宗教的経験の系統的な深まりを考慮しながら順番に配列してある。

なお、一つの主題は同時に他の主題とも重なる部分があるので、保育内容における各領域がいくつも重なり合っている場合は、その重点となるものが掲げられている。したがって、日々の保育実践をしていく上では、各月の主題に掲げられている事柄を重ね合わせながら、総合的に展開・達成していくことが求められている。そこで、各園においてはこの「保育主題」のねらいに基づいた毎月の保育計画が作成され、日々「まことの保育」が実施されていくことが期待されている。

 

A 現行・保育主題の問題点

 

ところが、保育の現場においては、それが計画案に盛り込まれ、具体的に実践されているかというと、必ずしもそうとは言い得ない状況にある。その理由の一つとして考えられるのが、この「主題」は仏教語であるため、保育者の方々にはすぐには理解しにくいこと。また、その意味を物語る言葉が、十分伝わっていないことなどが考えられる。例えば、

4月は「信順:おがみます」

5月は「讃嘆:たたえます」

6月は「歓喜:つよくのびます」

と、それぞれに子どもの行動面で主題の説明がなされているが、

7月の「照育:おそだて」

8月の「反省:すみません」

9月の「報謝:ありがとう」

11月の「領解:こころがけ」

1月の「報恩:ごおん」

3月の「奉仕:おてつだい」

などは、子どもの行動面で示されてはいないので、保育者にとっては「わかりにくい」、さらには主題そのものが「全体的な統一感を欠く」といったような印象を与えてしまっているように思われる。

そこで、私は「保育主題」の表現は一応そのままに、それを説明する言葉を、もとになっている「浄土真宗の生活信条」に一度返して、それぞれ子どもの行動面で示すように改めると、いくぶん分かりやすくなるような気がしている。具体的には、

  7月は「照育:あおぎます」

8月は「反省:かえりみます」

9月は「報謝:はげみます」

11月は「領解:こころがけます」

1月は「報恩:よろこびます」

3月は「奉仕:てつだいます」

というように、他の月と同様に子どもの行動面で表すと、今の表現よりも少しは理解しやすくなる。

少し説明を加えると、7月の「あおぎます」は、いったい何を仰ぐのかというと、生活信条の「み仏の光をあおぎ…」を根拠にしているので、これは「み仏の光をあおぐ」ことだと説明ができるし、生活信条との整合性もとれる。

同様に8月の「かえりみます」は「常に我が身をかえりみて…」、9月の「はげみます」は「感謝のうちに励みます」を根拠にしているので、同じく整合性がとれる。これは1月の「報恩」を物語る「よろこびます」も「み仏の恵を喜び…」を根拠にしているので、何を喜ぶのかと問われると「み仏のめぐみを喜ぶ」のだと容易に答えることが出来る。

  とは言え、やはり「保育主題」そのものは仏教語のままであるから、それをいくら子どもの行動面で表したとしても、保育者や子ども達がその意味をすぐに理解するという訳にはいかないが、それでも主題全体の統一感は出るし、またその意味については保育計画のねらいや配慮事項に示すことで、その意図を保育者が理解し、子ども達に伝えて行くことは十分に可能だと思われる。

 

B 保育目標・計画の表現の仕方

 

もう一つの問題点は、「年間指導計画」を立てる場合大切なことは、連続性と一貫性を持った内容とすることあるが、現行の保育主題は「月の主題」となっているためこれとは合致しない。

例えば、2月の主題は「和合・仲良くします」ですが、園生活においては2月だけ仲良くしていれば良いのかというと、決してそういう訳ではなく、また3月は「奉仕・手伝います」ですが、3月だけがお手伝い月間ということにはならない。つまり、保育主題はその月だけ限定的に意識すればよいのではなく、いずれの主題も年間を通して計画的に保育していくことが大切なのである。

では、具体的にはどうすればよいのかというと、これまでの考え方を根本的に変えてしまえばよい。今のあり方では「毎月の主題」ということになっているが、12の主題すべてそれぞれのねらいとするところを5歳児の3月に設定して、それに向けて4月から年間を通してそのことを実現していくための計画案を作成するのである。

実は、これまでまことの保育の「指導計画」を作成するにあたって、このような方法論を用いることは誰からも提唱されていなかった。けれども、今回示したような資料(保育主題の展開)があれば、だいたいどこの園でもある程度同じような方向性で、まことの保育を進めていくことができると思われる。

もちろん、これとは別に従来の保育指導計画は作成しなれければならない。では、この「保育主題の展開」の表をどのように用いればよいかというと、通常の保育の根底に意識化して頂きたく思う。

例えば「縄跳び」は五領域でいうと「健康」に分類されるが、なぜ「まことの保育」において「縄跳び」をするのかというと、その根底に「精進」(目標に向かい、諦めることなく、進み続けられるようになる)という主題の願いを実現するためだと答えることができる。あるいは、パズルなども子ども達はすぐに完成させることは出来ないが、諦めずに続けていくと、最後には完成させることを期待できる。これも「精進」。同様に、絵本の読み聞かせをするのも「聞法」(聞いた内容を理解し、自分の言葉で他に伝えられるようになる)という主題の願いを実現するため、といった説明をすることが可能である。

このことから、日々の保育を行って行く際は、「なぜその保育をするのか」ということを自分に問いかけ、それに対して「まことの保育のこの主題の願いを実現するため」と答えられるかどうかということが、大切なのだと言い得る。

なお、今回提示しました資料は、あくまでもサンプルであるから、これを参考にして、各園で自分達により分かりやすい言葉に改めて、「保育指導計画」に盛り込んで頂ければ有り難い。

これまで、述べてきたようなことを念頭において保育をして行くと、表面的にはそれまでとあまり変わらない保育をしているようではあっても、その内面においては、常に「まことの保育」の願いを意識した保育となり、先生方も「日々、まことの保育に取り組んでいること」を実感できると思われる。

 

C 浄土真宗の生活信条

 

「保育主題」については、どのように保育指導計画に反映していけばよいのかということは概ね理解いただけたと思うが、ではその根拠となっている「浄土真宗の生活信条」についてはどうでろうか。「保育主題」と同様に、「生活信条」の文章を要約してその願いとするところを

 

・あみださまをおがむ子ども

・ありがとうの言える子ども

・お話をよく聞く子ども

・なかよくする子ども

 

と示されてあるが、「保育目標」などの作成にあたっては、「保育指針」・「教育要領」をもとに行うことが求められている。そのため、ともすれば従来の表現のままこれらを園の「保育目標」に掲げたり、あるいは「保育指導計画」の中に盛り込もうとすると、「保育指針」や「教育要領」の中には仏教語がないため、どうしても整合性を欠く面がある。また、「生活信条」の意図するところを十分に表現できていないように感じられる面もある。そこで、私は表現の見直しをしても良いのではないかと思っている。

  例えば、「お話をよく聞く子ども」「なかよくする子ども」という表現はそのままでも良いと思うが、残る二つ「あみださまをおがむ子ども」は「まことに生きる子ども」、「ありがとうの言える子ども」は表現としては分かりやすいものの、もう少し保育内容の範囲を広げて「思いやりのある子ども」という表現に改めることを真宗保育学会でも提案したりしてきた。

また、「浄土真宗の生活信条」と「保育主題」との関係性で述べると、これまでは「毎月の主題」ということで、4月は「信順」ですが、「信順」だけのところでとらえてしまい、5月の「讃嘆」や6月の「歓喜」とは全く切り離して考えられたきた。

けれども、「信順」「讃嘆」「歓喜」は、もともと「み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生きぬきます」という言葉を展開したものであるから、それぞれの主題は関連付けて考えていく必要があると言える。それは、次の「照育」「反省」「報謝」も同じことで、もちろん「聞法」「領解」「精進」、さらに「報恩」「和合」「奉仕」についても言える。

 そうすると、「保育主題」はまず4つに分けてそれぞれの願いとするところを理解し、更にそれを12の主題に分けて関連付けながら展開していく必要があると言い得る。

 

◎ まことに生きる子ども

 

・ み仏の誓いを信じ 尊いみ名を称えつつ 強く明るく生き抜きます

 

 4月・5月・6月は、それぞれ「信順」「讃嘆」「歓喜」という主題が示されて、「あみださまをおがむ子ども」と表現してある。

私は、これを「まことに生きる子ども」とした方が良いのではないかと思っている。どこが違うのかというと、「あみださまをおがむ」というのは「礼拝」であるが、「まことに生きる」は「南無の心」=「帰命」を意味する表現だからである。

このことについて、中国の曇鸞大師という方が『浄土論註』という書物の中で、

 しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもって推するに、帰命は重とす。

と、明確に述べておられる。意訳すると

礼拝というのは、うやうやしく拝みたてまつるということではあっても、必ずしも帰命という意義はもたない。それに対して、帰命ということには、必ず礼拝という姿がともなう。そのことから言えば、帰命ということは礼拝より意味は重い。

つまり、礼拝は必ずしも帰命ということを含まないが、帰命は必ず礼拝ということを含む。だから、礼拝と帰命とでは、帰命の方が意味が重いのだと言われるのである。

これを月の主題で言うと、4月は「信順」だが「(仏さまを)拝みます」となっているから、「礼拝」ということになる。ただしこの礼拝は、「ただ恭敬にして」といわれるようなうやうやしく拝むだけの表面的なものではなく、「帰命はこれ礼拝なり」といわれるときの、「帰命」における礼拝を意味していることは明らかである。

これを更に浄土真宗の生活信条の言葉に則して言いうと、み仏の誓いを信じというのは、「念仏せよ、浄土に迎えとって仏にせしめる」という阿弥陀仏の本願(誓い)を信じるということである。つまり、「南無阿弥陀仏と念仏して、浄土に生まれるのだと信じる」ということになる。ところが、実はこれがなかなか難しい。

なぜなら、「み仏の誓いを信じる」といっても、では、本当に自分は阿弥陀仏を信じているか、あるいは「間違いなく念仏して浄土に生まれることを信じているか」と問われるとどうか。おそらく、誰もが不安になると思う。それは、たとえ日頃「南無阿弥陀仏」と口にしてはいても、自分が阿弥陀仏を深く信じているという確証は何一つ得られないし、ましてや浄土に生まれるのだという喜びの心も生じてはこないからである。ただし、これは当然のことであって、阿弥陀仏も本願も浄土も、私たちにとっては見ることも触れることも知ることもできないのであるから、私の力でその真実の姿をつかみ、確かな信を得ようとしても、本来それは無理なことだと言える。

では、私たちにとって、本当に疑いなく信じることのできるものとはいったい何か。それは、臨終の瞬間まで、そのようなただ不安におののく自分の姿だと言える。だとすれば、このどうしようもない、愚かな自分の姿を限りなく信じるということが私たちにとっては、重要なことになる。

そうすると「み仏の誓いを信じ」るということは、実は「愚かで不安のままに生きる、この私を救う」という、阿弥陀仏の教えをただ信じることだと言える。

次に尊いみ名を称えつつというのは、具体的には「南無阿弥陀仏」と口に称えるということである。ただし「南無」というのは、私たちが「阿弥陀仏を一心に信じます」という心を意味するから、南無という以上一心に阿弥陀仏を信じていなければならない。ところが、私たちの心は常に様々な迷いによって乱れていて、死ぬ瞬間まで清らかな真実の心で念仏を称えることなど不可能である。

仮に、どれほど心をこめて念仏を称えても、そこには一かけらの真実もないのであるから、私から阿弥陀仏への方向性においては、全く評価すべきものは何もない。そこで、親鸞聖人は、この念仏とは、実は阿弥陀仏自らが私たちにその姿を知らしめるために現われたものであると言わる。一般に、念仏とは私が称えているものだと思っているが、その内実は、阿弥陀仏から私がよばれている姿なのだと教えておられるのである。

 そうすると「み仏の誓いを信じる」ということは、「念仏せよ、救う」という阿弥陀仏の教えを聞いて信じるということであるが、それはそのまま「尊いみ名を称える」ということと重なる。したがって、「尊いみ名を称える」ということは、「み仏の誓いを信じ」るという心が、具体的行動面に表れた姿だと言える。

 では強く明るく生き抜きますというのは、どのようなことか。み仏の誓いというのは、この「私を浄土に生まれさせることだ」と述べたが、その「浄土」とは、どのような世界かというと、「清浄の土」といわれる。

この清浄の「清」とは、そこにいるすべてのものが満足しているあり方、「浄」というのは心が開かれ明るさを持つあり方という意味がある。また、「清」に対するものは「濁」で、これは「にごっている」ということである。仏教では、この世は濁世であるといい、この濁という言葉で私たちのあり方を語っている。「濁」つまりにごっているということは、そこにあるものすべてがぼんやりとしているということである。例えば、水がにごっているということは、水の中にあるもの全てがぼんやりとして見えないということで、それはまた、曖昧ということでもある。そうすると、私たちの世の中は濁世ということであるから、みんな曖昧にぼんやりとした中に生きているということになる。

いったい何がぼんやりしているのかというと、根本的には、自分にとって、自分自身が曖昧だということである。このように、濁世の濁ということの根本には、世の中がにごっているということの前に、自分にとって自身が曖昧だということがあるというわけである。

そのために、どうなれば自分が本当に満足できるのか。あるいは、自分が本当に求めているものが何なのかが分からない。そして、その分からないままで、いろいろなことを周りに要求をしているので、あれにも満足しこれにも満足したけれども、結局のところ、一生を振り返ってみると、自分の人生とはいったい何だったのか分からない、というようなことになってしまうのである。

このように、「濁」とは自分にとって自身が曖昧なままに生きているということであるから、それは、本来の自分というものが分からないままに生きているというあり方だといえる。

それに対して、「清」とは自分がはっきりしたということである。ただし、それは何かがどうなったから満足することができたというのではなく、自分がここにこうして在ることを本当に受け止めることができた。私の生きている喜びがそこに見いだせた。自分自身に、本当に安んじて生きることが出来るようになったということである。

また、「浄」ということは、「穢」ということに応えている。浄土に対して、穢土というが、穢という言葉は、仏教では執着されているあり方をさしている。穢というのは、けがれているということであるが、それは何に対してけがれているのかというと、執着にけがれているというのである。

人間の生き方にしても、社会のあり方にしてみても、私たちはすべて自分の思い、自分中心の見方でとらえている。そして、そのような自分の思いを後生大事にかかえて生きている。それは、つまるところ、それぞれ自分の思いに閉じこもって生きているということである。

考えてみると、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友をもっている間は、絶望することはない。けれども、誰に言ってもどうにもなるものかという、自分の思いに閉じこもってしまった時に、人は絶望してしまう。したがって、たとえそれがどれほど苦しい事実であっても、決して事実によって絶望することはない。孤独感に苛まれ、心を閉じ、自分だけの思いに閉じこもったとき、人は救いのない、抜け場のない、そういうあり方の中に落ち込んでいく。

これに対して、浄土というのは、心が開かれ明るさを持つ世界である。それは、苦楽ともにということから言うと、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界ということである。

私たちが浄土を見いだし、常に浄土を心の依りどころとして生きていくということは、苦しみにおいて常に自らを明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と出会う、そういう生き方が私たちの上に開かれてくるということである。

このような意味で、少なくとも私たちにとって二つのことが生き方の中に開かれなければ、本当に自らの人生というものを十分に生ききるということは出来ないのではないか。一つは、自分の事実をどこまでも引き受けていける場所を持つということ。今一つは、同時に全ての人々と、喜びを共に分かち合っていける心が開かれてくるということ。

人生の途上で、たとえつまづいても、くじけても、私が帰っていける世界を見いだすことが出来れば、私たちはその喜びを胸に、一度限りのこの人生を尽くしていくことが出来るのだと思う。まさに、「強く明るく生きぬく」ことが出来るのである。そして、既に願うに先立って、願われている自分であったことに目覚めるとき、私たちはこの不確かな人生を強く明るく生き抜くことができるのだと言える。

そこで、このことを踏まえて、単に「仏さまをおがむ子ども」よりも、「まことに生きる子ども」と表現した方が、生活信条の願いにより近いように思っている次第である。

 

思いやりのある子ども

 

・ み仏の光を仰ぎ 常に我が身をかえりみて 感謝のうちに励みます

 

7月・8月・9月は、それぞれ「照育」「反省」「報謝」という主題が示されて、「ありがとうの言える子ども」と表現してある。けれども、私はこれを「思いやりのある子ども」と表現することを提案している。「感謝のうちに励む」ことを「ありがとうの言える」と捉えてあるが、それだけではまだ不十分だと思われるからである。

 親鸞聖人は、念仏者として生きることのしるしというものを「ねんごろのこころ」を持つということにご覧になっておられる。「保育理念」では、「親鸞聖人の生き方に学ぶ」ということが目標に掲げられているが、それは「念仏者として生きる」ことに重なる。そうすると、私たち「まことの保育」に携わる保育者にも、保育をして行く上で、そこに「ねんごろのこころ」が求められているように窺える。では、親鸞聖人がおっしゃる「ねんごろのこころ」とは、いったいどのような心のことか。

辞書によれば「ねんごろ」という言葉は、相手の気持ち、さらに言えば相手の存在を思いやる心を意味している。相手の存在そのものを常に心にかけ、思いやるという意味が「ねんごろ」という言葉にはこめられているのである。

 この「相手を思いやる」ということは、自分の思いで相手を思いやるのではない。自分の思いで相手を思いやるという時には、自分は「ねんごろ」なつもりであっても、相手にとっては煩わしいだけということも少なからずある。したがって「ねんごろ」ということは、ただ単に相手を思いやるということではなくて、相手を思いやる心を持って相手に聞くということ。相手の心に尋ねるということが、「ねんごろ」という心の根底にはあるように窺える。

 つまり、自分なりに何か相手のことを考えて「こうすると一番喜ぶはずだ」といったような形で、自分の思いを一方的に押し付けるのではなく、精一杯のことをしながら、しかもなおそこには相手の気持ちを思い量るということが押さえられてくるのだと思われる。

 親鸞聖人がおっしゃる「ねんごろに」という言葉は、「根が絡み合うほど共に生きて行くかかわり」のことであるが、それは今出会っているその人をそれこそ固定観念や先入観で決めつけてしまわずに、一人ひとりと真向かいになる、その一人ひとりを深く見つめ、一人ひとりの心を静かに聞きなさいということが言われてあるように窺える。

 ところが、私たちは、ともすればそういうことを全く離れて、何か全部を一方的に決めつけてレッテルを貼り、それでわかったつもりになってしまう。そのために、子ども達を見るときにも、一人ひとりの子どもの心に寄り添うことをしようとはしないで、私の思いだけで見てしまい、その子のことが全てが分かったつもりなり、無意識の内にこの子はこんな子といったレッテルを貼って、しかもそのことに気付かないでいるということがあったりもするようである。

このように、私たちは「ねんごろの心」を失うと、無意識の内に自分が持っている「物差し」で人やものごとを受け止め、自分中心にものごとを考えるということを繰り返して生きるということになる。

親鸞聖人が、念仏者のしるしを「ねんごろのこころ」とおっしゃっておられるということは、「まことの保育者」としての私のあり方を考える上で、非常に大切なことを教えてくださっておられるように思われる。

 以上のことを踏まえると、「仏の子どもを育てる」ということは「ねんごろのこころ」、それはまさに「思いやりのある子どもを育てる」ことになると言いうる。

 これを浄土真宗の生活信条に則して確かめると、「み仏の光を仰ぎ」という言葉が出てくる。ここのところを「保育主題」では「照育(おそだて)」としてあるが、この表現では少し意味がわかりにくいように思われる。

親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏は光の如来である」ということをおっしゃっておられる。

「如来」というのは「仏さま」のことであるが、普通「光の如来」という言葉を聞くと、私たちはどこかに阿弥陀仏という存在がいて、例えば灯台のように周りに阿弥陀仏が光を放っているという光景を想像するが、親鸞聖人のこの言葉は「光の他に阿弥陀仏という存在はない。阿弥陀仏とは、光のはたらきそのものだ」ということを明らかにしておられるのである。

したがって「み仏の光を仰ぐ」といっても、少なくともそれは、どこからか放たれてくる光を見るということではない。この光明について、親鸞聖人は

無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏。

と示しておられる。「無碍光」というのは、あらゆる物、あらゆる場の上に等しくはたらくという意味で、いかなるものを等しく照らしだし、その照らしだすことによって、すべてのもののそのまことのすがたをあらわにして行くことにある。

ところで、なぜ阿弥陀仏の智慧が光明をもって表されるのか。光がないときの私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他ない。その手さぐりの生活とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きてゆくということである。そして、もしそういう自分の判断、自分の体験を唯一の頼りとして生きていくということになると、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまう。つまり、自分の体験だけにとらわれてしまって、なかなか物事の本質が見抜けなくなってしまうのである。

そのような生き方に陥ると、人生の全体像が見えなくなってしまい、自分の体験だけを後生大事にかかえ、それを絶対的な基準にして人生を解釈してしまう。光明としての智慧がないとき、人はかならずそういう過ちを犯してしまう。

中国の善導大師のお言葉に

 経というは経(たていと)なり。経(たていと)よく緯(よこいと)を持(たも)つ。疋丈(ひつじょう)を成ずるを得。

と有る。

この「経」という文字は、織機の前に人が座って布を織っている姿をかたどったもの。したがって、生活の中に経典をいただくということは、その生活の中にたて糸をしっかり張ることで、縦糸をはることによって、全ての体験を一つの世界にまで織り上げていくのである。このことから言うと、手さぐりの生活というのは、いわば縦糸なしに横糸ばかりを積み重ねているようなものである。それでは、どれだけ積み重ねても、布には織り上がらない。しかも、そのような手さぐり生活においては、手さぐりしている自分の姿は自身には決して見えないし、自分自身に目覚めるということもない。

このようなことから、仏教の智慧が光で表される第一の意味は、私たち一人ひとりに抜き難くあるところの、自分の体験への執着そのものを破るはたらき、それが仏教の智慧だということである。つまり、仏教でいう智慧とは、あれも知っているこれも知っているということではなく、まわりがはっきり見えるということで、そのことは同時に、手さぐりしている自分がはっきり見えるということに他ならない。

見えてくるという言い方をすると、何かまわりをただ眺めているだけのことのようであるが、そうではなく、本当に見えたというときには、その事実にしたがって生かされていくということになる。

それが、たとえ今までの自分の体験によって培ってきたものの考え方をその根底から否定し、ひっくり返すようなものであっても、それが事実であるかぎり、事実を事実として受け止め、生きてゆく勇気と情熱としてはたらくのである。

手さぐりの生活においては、どこまでもただ自分の体験だけが依り処になっている。そのときには、自分自身を依り処にして生きているように思うが、実はそうしている自分自身は少しも見えていない。他の人がそれぞれ一生懸命に生きている姿にふれたとき、ああ今までの自分はこうだったのかということが、逆に知らされてくる。それは、自分を超えた世界にふれたとき、初めて自分の姿も見えてくるということである。

この「自分が見えてくる」ということを、仏教では分限(ぶんげん)の自覚という。

自分の分限を知るということは、私を生かしてくださっている全ての力に出会い、目覚めるということで、それは今まで自分の力だけで生きているつもりだった自分が、初めて全ての人々のお蔭で生かされていたことに気付いた心である。自分自身が見えないということは、この身に賜っているいのちそのもの、この私の人生そのものを受け止め、見通す眼が持てないということである。全体を見渡し見通す眼を賜り、全体の中に生かされている自分自身を知らされるということは、この人生において何が根本問題であるかをはっきりと見極める智慧を賜るということである。それは、このいのちが帰って往く世界を見いだすということになるのであるが、私たちは、自分のいのちの帰って往く世界を持つとき、初めてその人生が方向性をもった確かな歩みとなる。

 「人間の眼は光そのものを見ること出来ないが、光に照らされて我が身を見ることは出来る

と言われる。確かに、迷いに満ちた私たちは仏さまの智慧の光を見ることは出来ない。けれども、その光に照らされて、私自身の愚かな姿を知ることは出来る。

そうすると、「み仏の光」とは、この私のあるがままの姿を照らし続けるはたらきであり、私たちは具体的には仏さまの教えを聞くことを通して、手さぐりの生活をしている自分の姿に気付くと同時に、私のいのちは多くのいのちのお蔭によって、ここにこうして生かされ、願われていることに頷くことが出来るようになるのだと言いうる。

それがまさに「み仏の光をあおぐ」ことによって開かれる生き方であり、そのまま「常に我が身を省みて、感謝のうちに励む」私の姿と重なっていくことになる。

 

お話をよく聞く子ども

 

・ み仏の教えにしたがい 正しい道を聞き分けて まことのみ法をひろめます

 

10月・11月・12月は、「聞法」「領解」「精進」という主題が示され、「よく聞く子ども」と表現してある。三つの主題をまとめて言うと「聞いたことをよく理解し、いつも忘れることなく心に止めて、諦めずに努力し続けていく」となる。ここで問題なのは「聞く」ということである。

 一般に「聞く」ということは、いとも簡単に出来ることのように思われているが、実はこれがなかなか難しい。「聞く」とはどのようなことかと言うと、それがいったいどのような話だったのか、自分の言葉で言えることである。つまり、「聞く」というのは「聞いて理解する」ということなのである。なぜなら、たとえ聞いたと言っても、何を聞いたのか話せなければ聞かなかったのと同じだからである。また、更に難しいのは、仮に自分の言葉で上手く話すことができたとしても、そこに自分勝手な解釈を加えて、話し手の意図と違う意味で伝えてしまうようでは、これもまた問題である。実は、「聞く」ことにおける一番の問題が、この「聞き違い」ということに他ならない。

 蓮如上人は、「面々に聞きかえ」「意巧にきく」、あるいは「得手に法を聞く」等の表現で、話を聞くときの問題点を明確に指摘しておられる。これは、自分の思いで意識して聞き違えるのではなく、自身が自覚し、注意し、反省するよりももっと巧みに、こころが無意識のうちに勝手に聞きかえてしまうということで、自分にとって「都合のいい悪いに関わらず」である。蓮如上人が、一方的に聞くことだけに終わるのではなく、聞いたあとはお互いによくよく話し合い、確かめ合うことが大切だと繰り返し注意される理由も、おそらくこのことを踏まえてのことに違いない。

 では、繰り返し聞いて話し合えば、私たちはそれでもう十分なのか。実は、そういう訳にもいかない。なぜなら、私たちは教えを聞くことを通して、その通りにはなり得ない自分のありように気付かされますと、一応は反省をするが、やがて一旦反省して下がった頭がいつの間にか持ち上がり、反省したことを今度は自分の中に取り込んでしまおうとさえしてしまう。もちろん、心が無意識のうちに…である。

親鸞聖人は、「弟子は一人もいない」と言われますが、それは自らが聞いた教えを、常に語りながら聞き続けるという姿勢を保っておられたからだと言いうる。したがって、保育者も常に、子ども達と共に教えを「聞く」という態度を大切にして頂きたい。

                    

みんなと仲良くする子ども

 

・ み仏の恵みを喜び 互いに敬い助け合い 社会のために尽くします

 

1月・2月・3月は、それぞれ「報恩」「和合」「奉仕」という主題が示されて、「なかよくする子ども」と表現してある。

仏教では、当相敬愛(まさにあい敬い愛すべし)という言葉がある。これは、自分自身のいのちの尊さに目覚めてこそ、初めて他の人々の人格を敬い、更には他の生き物のいのちを尊ぶということが出来るということであるが、この言葉はまた私自身の現にこのように生きているということへの深い喜びと感激というものがない限り、他の生きものの生きている事実に対して敬いの心を持つことはできないということを明らかにしたものである。「なかよくする」ということが中心課題としてあげられているので、このことについてしばらく考えたい。

 園では、子ども達がケンカをすることがしばしばある。そのような時、概ね当事者と周囲にいた子どもから事情聴取をして、先に手を出した子に対して相手に謝るように助言・指導するといった関り方をされるのではなされている。いわゆる、検察官と裁判官のような役割を果たすということになるが、そこで問題になるのは「善悪の問題」である。

  この場合、大人の眼から見ると、どちらかが間違っているように見えても、争っている子ども同士は、「自分は正しい」と思っている。そのことを見落として、大人の価値観だけで判決を下して、一方に対して相手に謝るよう指導しても、これは子どもの側にしてみれば、大人の力によって屈伏させられ、しかも謝罪までさせられるという屈辱感を味合わされただけのことで真の解決にはならない。では、どうすれば良いのかというと、そのときの子どもの年齢・状況にもよるが、基本的には「どうすればケンカをしなくても済んだのか。どうすれば、お互いに仲良く出来たのか。」そのことを子ども同士で考えさせることである。

 お釈迦さまは「善と悪の二つを離れる」ということを言われる。悪を離れるだけではなく、善をも離れるという言葉がある。また、「善と悪を離れて、涅槃(=さとり)に入る」ということも説いておられる。このように、仏教では善悪ということを、ただどちらが正しいかということではなくして、その根本に執着ということを見ているのである。

 蓮如上人が、自分は絶対に間違っていない、正義だと思っても、そのことに固執する、つまり根本に執着があるならば、どれだけ善であっても、それがかえって他人を傷つけてしまうという注意をしておられる。常識で考えて、悪いことをしているという自覚がある時には、心の内に痛みを持っているが故に、機会があれば改心するということもある。しかし、自分が正しいという思いに凝り固まっている人は、手のつけようがない。むしろ、悪よりも正義の方が人を深く惑わせるということがある。

しかも、自分がよいことをしていると思っている時には、それを他人に主張し、押し付けることさえあるが、人間はむしろ善の名において、残酷なことをしてしまうのである。このような意味で「仲良く」ということの根底には、表面上の善か悪かを判別することよりも、その根底にある「自分は正しい」と自らに固執する心を破っていくことを重視することが大切になるのだと言い得る。

仏教とは、一言でいうと「もろもろの悪をなすことなかれ。もろもろの善をつとめおこない、自らその心を浄くせよ。これ諸仏の教なり。」と言われる。

 「その心を浄くせよ」ここに仏教のいのちがある。悪いことをするな、善いことをせよということだけならば、倫理道徳ということで十分であるが、倫理道徳だけで私たちが自分を保てないのは、善いことをすれば、その「自分は善いことをしたぞ」という思いが、他人を傷つけ、また自分を迷わせるからである。そして、「自分はしたぞ」という思いが、それを他人から認めてもらいたいという気持ちをともない、もしそれが認められないと、またいろいろな心の迷いを引き起こす。「自らその心を浄くする」ということは、いかにしてその自分にとらわれる心、我執を破るかということなのである。

 このことを「仲良くする」ということを通して考えようとすると、そこに「いつも自分は正しい」という思いで生きている自分の姿が知られ、そのどこまでも自分にとらわれる心が、周囲の人々との争いを生み出していることに気付かされる。また、時には自分の正義が受け入れられないことが、周囲の人々へのいらだちとなったり、孤独感に苛まれることの原因となっていたのだということにも気付かされることになる。

 そのような事実に目が開かれる時、それにも関わらず身勝手な私がここにこうして許されてあるということを知り、そのことに報いていこうとする思い、具体的には社会や他の人のために尽くそうとする「奉仕」の心が芽生えるのだと言い得る。

 以上のことから「まことの保育」を進めて行く上では、各園で保育理念と保育指針・教育要領の整合性を図りながら、「生きる力」の基礎をはぐくむこと念頭に置いた「保育目標」を掲げ、それを実現して行くために、「浄土真宗の生活信条」の願うところをよく理解し、12の保育主題のねらいを保育指導計画の根底に意識しつつ、日々の保育を進めていくことが大切なのである。

平成23年度鹿児島教区保育連盟中堅・主任職員研修会講話原稿



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